スピリチュアル・ペイン

この記事では2022年6月26日の日本基督教団四街道教会における礼拝メッセージの原稿を公開しています。聖書箇所は以下の2箇所です。

新約聖書:使徒言行録16章16〜24節、マルコによる福音書5章1〜20節

本文:

 今日朗読された聖書箇所には「霊」が登場しました。日本だと「霊」と聞くと「お化け」を連想しますが聖書における「霊」は「お化け」のことではなくて人間が生きる上で欠かすことのできない大切な何かとして登場します。創世記2章には人間が造られた様子が記されています。「神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった」。ここで「息」と訳されている語が「霊」と訳される語と同じです。人間は息をして酸素を全身に取り込むように絶えず霊を全身に取り込まないと生きられない存在だと聖書では考えられています。しかし世の中には良い霊ばかりではありません。悪い霊が存在します。だからこそ私たちが霊を必要としているときに良い霊ではなく悪い霊を自分の中に取り込んでしまわないように注意する必要があります。

 先日久しぶりにカトリック上野教会に行って超教派の牧師会に出席してきました。久しぶりの再会を喜んだのですが、第一印象非常に浮かない表情の先生がおられました。いつもは朗らかな表情をされているのにどうしたのかな、長引くコロナ禍でちょっと気持ちが落ち込んでいるのかなと思ったのですが、近況報告の中で今年の3月にがんのためにお連れ合いを亡くされたと伺い、浮かない表情の理由が分かりました。先日の牧師会には他にもお連れ合いを亡くされてまだ1年半という牧師さんも出席されていましたので、会の話題の中心は長年連れ添ったパートナーを亡くすことの痛みや寂しさについてでした。

 お二方とも夫妻共にキリスト者でありパートナーは自身の病状を理解し準備をした上で亡くなられました。ですから死の恐怖に呑み込まれて亡くなったのではなく「死よ、お前のとげはどこにあるのか 死は勝利に呑み込まれた」という聖書の言葉通り、天国の希望やこれまで神に生かされて歩んできた人生への感謝を持って亡くなられたとのことでした。そのようなパートナーの看取りを通して信仰的に大変大切なものを遺していってくれたという思いはあるものの、一方で遺された者、遺族はこれからどのようにして生きていったら良いのかと途方に暮れていると話してくださいました。今まで四輪の車として走っていたのが2つのタイヤがない状態で走っている、そんな感覚を持っているという心境を包み隠さず話してくださいました。

 キリスト教の世界ではそのような状態を霊的な痛み/スピリチュアル・ペインを抱えた状態といいます。冒頭でもお話しした通り人間は生きる上で息をするのと同じように絶えず霊を必要としています。人生というのはいつも同じステージにいるのではなく全く異なるステージに移行することがありますから、そのステージを生きるために霊を必要とするのです。これまで死を意識せずに生きてきたが医者から余命を宣告されて死を意識する生活に移った、長年パートナーと生活してきたが離婚や死別により一人で生活することになった、これまで会社人間、仕事一筋で生きてきたが定年退職して仕事を辞めたなど新たなステージへの移行は新たな霊を求める時です。魂の渇きを覚えている時にそれを潤してくれる霊、また霊的な痛みを感じているときにそれを癒やしてくれる霊を求めている時があります。

 しかしそういう時というのは外から見ても浮かない表情で弱っている時でもありますからそういう弱みにつけ込んで騙そうと付け狙ってくる悪い人がいます。霊的な痛みや渇きを感じている人が何万円もするパワーストーンや一本数千円もする水を買ってしまう話が後を立ちませんし、もう10年以上前でしょうか、当時人気だったある芸能人が占い師に洗脳されて同居させられて生活が無茶苦茶にされるという出来事もありました。霊には良い霊と悪い霊があります。良い霊とは魂の渇きを潤し霊的な痛みを癒してくれる霊です。一方で悪い霊とは建前では良いことを宣伝しても実際にはそのような癒やしを提供せずにその人が持っているものを搾取してその人から人間性を含め様々なものを奪います。

 今日の聖書朗読ではそれぞれに悪い霊が出てきました。イエスさまがゲラサ地方で出会った、汚れた霊に取りつかれていた人は村から追い出され、墓場で住むことを余儀なくされていました。みんなから拒絶されて孤独に生きる中で自らの価値を見失い「石で自分の体を傷つけてい」たのです。カルト宗教にのめり込んでいった人とその家族の関係を見ているかのようです。カルト宗教にはまって家のお金を使い果たして家族関係が壊れ、家から追い出されて墓場のような寂しい場所で暮らし自傷行為を繰り返してしまう。そのようなカルト被害者の現実と重なり合います。

 また使徒言行録に出てくる占いの霊はもっと露骨に金儲けと結びついていました。そのことが女性から霊が出ていったことをうけて「この女の主人たちは、金儲けの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ」と19節に書かれてあります。彼女に取りついた占いの霊は彼女の霊的な痛みを癒やし、渇きを潤す存在ではありませんでした。しかし彼女が霊に取りつかれていると金儲けになるからと主人たちは彼女の渇きや痛みを無視して搾取を続けていたのです。彼女がパウロたちにすがりついたのはパウロたちに注がれている霊、聖霊こそ自分の痛みや渇きを癒やし、潤してくれると直感したからです。彼女は諦めることなく何日も付きまとい、ついにパウロはたまりかねて彼女から悪い霊を追い出すのです。

 私たちが必要としている良い霊とはどこからくるのか。神さまはこの世にイエス・キリストをお遣わしになり、その名を通してすべての人に良い霊、聖霊を与えてくださいます。イエス・キリストの名によって与えられる良い霊、聖霊こそがキリスト教の宝です。人生のステージが変わり霊的な渇きや痛みを覚える時、神さまは必ずイエス・キリストの名によって良い霊を送り込み、渇きを潤し、痛みを癒やしてくださいます。このキリスト教の宝、魂の渇きを潤し霊的な痛みを癒やす聖霊を渇きや痛みを負い、また悪い霊に苦しめられている人たちのところに届けていきましょう。

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