聖書の神には耳がある

「主よ、深い淵の底からあなたに叫びます。わが主よ、私の声を聞いてください。嘆き祈る声に耳を傾けてください。主よ、あなたが過ちに目を留めるなら わが主よ、誰が耐えられましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあります。あなたが畏れられるために。」(130編1節後半〜4節 聖書協会共同訳聖書より)

 富山で先月から行方不明になっていた2歳児が遺体で発見されたというニュースを見、子を持つ親としてとてもいたたまれない悲しい気持ちになりました。ほんの数分目を離したすきに2歳児がドアの鍵を開けて家の外に行ってしまうなど誰が想像できるでしょう。保護者には何の過失も責任もないと固く信じていますが、それでも自分がその立場だったらと想像すると絶対に自分の過失だと思って自分を責めてしまうと思います。ご家族の心と体の健康が支えられることを願っています。

 詩編130編は歌い手が「深い淵の底」から神に向かって叫んでいます。これは海底と同じ光の届かない場所で絶望のどん底を表しています。絶望のどん底から神に向かって「私の声を聞いてください」と叫びを上げるのです。聖書の神にはとてもよく聞こえる耳があります。神の耳は近くにいる人の声だけではなくて深い淵の底にいる人、海底にいる人の声も届きます。そして私たちが生身の声を聞いて心や感情が動かされることがあるように、聖書の神もまた生身の声を聞く時、しかもそれが嘆き祈る声である時、激しく心を動かして何かしらの行動に出るのです。聖書の神は人に動かされる神です。

 絶望のどん底にいる人が続けて言います。「もし神が人間の過ちに目を留めるなら誰が立っていられるでしょうか」。この人は自分がいま絶望を味わっているのは、自分の過ちにも原因があると思っています。本当にこの人の過ちに原因があるかはわかりません。でもこの人自身が強くそう思っているのです。自分の過ちを責めています。他人がこの人に「あなたは悪くない。自分を責めないで」と言っても無駄です。その声は届きません。

 しかしこの人はなお一筋の希望を神に持っています。それは「自分が悪い。自分の過ちのせいでこんな絶望を味わっているのだ」と思っている人間の声すら神は聴いてくださるという信頼です。「神は私の過ちに目を留め続けることなく、いつか私の過ちを赦してくださる。」この人は絶望の底にあってただ神の赦しを待ち望み、それだけを希望にして生きています。「私の魂はわが主を待ち望みます 夜回りが朝を、夜回りが朝を待つにも増して。」夜回りとは見張りのことです。古代西アジアの諸都市では、日暮れ、深夜、明け方と3回、4時間交代で夜の警備が行われました。夜回りに当たる人は闇夜に紛れて矢が襲い掛かり、敵が攻め込んできて殺されてしまうかもしれないという恐怖を常に抱えています。無事何事もなく朝が来て欲しいとの願いを強く持っています。そのように夜回りが朝を待つよりも強い思いで私の魂は私の神を待ち望んでいるのだと語られています。

 どれだけの時間が経過したのでしょうか。この人は神によって絶望の底から救い出されました。そして自分の民族であるイスラエルに向かって言います。「イスラエルよ、主を待ち望め。主のもとに慈しみがあり そのもとに豊かな贖いがある。この方こそ、イスラエルを すべての過ちから贖ってくださる。」ここで赦しという語が慈しみと贖いという語に置き換えられています。自分の過ちのせいで絶望のどん底にいると思い込んでいる人を神が慈しみ、深い淵の底から叫ぶ声を聴いて心を動かし、その人のうちにある自責の念を受け止めた上で新たに生きる力を与えたのです。「あなたは悪くないよ」と言って結局はその人の思いを否定したのではありません。

 「贖い」とは古くは初子の代わりに動物を捧げることによって初子を生かすことです。神はそもそも初子を生かすために動物を必要としているのか分かりません。しかし神はとにかく人の思いを受け止めて動物を受け取り、初子を生かすのです。結果が大切で、初子は生かされます。同じように自らの過ちのせいで深い淵の底にいると思っている人の叫びを神は否定することなく受け止め、人間に心動かされて希望の光を準備します。聖書の神は絶望している人の生身の声をその耳で聴き取り、受け止め、人間の希望に応えるために動く方です。そうやって絶望している人に新たに生きる力を与えようとする神を信じて、絶望の中にあっても諦めずに叫び声を上げてもがくのが聖書に見られる生きた信仰です。

 このような信仰を持つ生き方を私はとても良いと思っています。

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キリスト教会の礼拝で行われている説教と呼ばれる聖書をテキストにしたメッセージを公開しています。

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