見出し画像

「フォローミー」

2022年3月20日(日)の礼拝メッセージを以下に公開しています。

聖書:新約聖書 マルコによる福音書 8章27〜34節

聖書本文は以下の日本聖書協会HP、「聖書本文検索」から読むことができます。

https://www.bible.or.jp/read/vers_search/titlechapter.html

メッセージ 「フォローミー」

 戦争が長期化しています。多くの市民の命が奪われ、何百万人もの難民が生まれている状況です。先日バチカンではカトリック教会の教皇フランシスコが祈りの集会で「子どもたちや<中略>市民の残忍な殺害を正当化することはできない」。「心の苦悩をもって、戦争の終結を祈る人々と声を一つにしたい」「神の名において願う、この殺戮を止めよ」と呼びかけました。また教皇は「神は戦争の神ではなく、平和の神である。暴力に頼む者は、神の名を冒涜する」と語って祈りを捧げました。私たちも祈りを共にしたいと思います。
参照「ウクライナ:教皇『神の名において願う、この殺戮を止めよ』」(https://www.vaticannews.va/ja/pope/news/2022-03/angelus-appello-per-ucraina-20220313.html VATICAN NEWS 2022年3月14日アクセス)

 私たちは全世界に暮らしており言語も思いもバラバラです。また全世界にキリスト教会があり何十億ものキリスト者がいますが、イエスをキリストと信じる教会すらも一つになれず分裂状態です。今なお暴力の論理を肯定して聖なる戦争や正しい戦争を主張する教会があり、一つになれないのが現実です。

 キリスト教の歴史を振り返ると大半は暴力や軍事力を否定する道を歩んで来ませんでした。神はこちら側にいる、私たちは正しいことをしているといって暴力を肯定する歴史を歩んできました。そのような歴史から分かることは私たちが皆一様に誘惑に弱く間違う存在であり、私たちの共同体は罪を犯すということです。どうして私たちは「もうそれでやめにしなさい」「剣を鞘に納めなさい」と言われ十字架の道を歩まれたキリストの後を従うことができないのでしょう。どの教会でも毎年レントを守り、その度にキリスト・イエスの十字架への道、受難の道を思って祈る日々を過ごすというのに。

 イエスは今日私たちに明確に言っています。「私の後に従いたい人は、自分の十字架を背負って私に従いなさい」。非常に重く厳しい言葉ですけど、紛れもなくこの姿こそ代々の教会がキリストと告白するイエスの言葉であるはずです。マルコによる福音書が書かれたのはだいたいエルサレム神殿が崩壊した70年前後といわれています。その少し前の紀元64年にはローマ皇帝ネロによるキリスト者への大迫害がありました。キリスト教信仰を貫くということが文字通り命懸けだった経験を経て、この福音書はイエスの言葉として「私の後に従いたい人は、自分の十字架を背負って私に従いなさい」と記すのです。ですからこれはイエスの言葉であると同時に、迫害を経験した教会共同体が福音書の執筆を通して残した信仰の告白と言えるでしょう。聖書に記されたこういうイエスの姿をねじ曲げ、信仰告白を蔑ろにして自分が好き勝手にイメージしたキリスト像こそ本当のキリストであると思い込む時に私たちは間違いを犯すのではないでしょうか。

 弟子のペトロの姿を見ているとそんなことを思います。彼は今日の聖書箇所でイエスはメシアであると自らの信仰を告白しています。メシアというのはキリストということですから立派な告白です。マタイによる福音書に記された同じ内容の箇所だとイエスは信仰を告白したペトロに天国の鍵を授けています。でもマルコ福音書には天の国の鍵の話はありません。ではどういう話が続くかというと、イエスが多くの苦しみを受け、排斥されて殺され、三日目に復活することになっているという教会でよく「受難予告」と呼ばれる言葉が語られます。そしてそれを聞いたペトロがイエスをいさめ始めると、イエスはペトロに「サタン、引き下がれ」と言って叱るのです。

 ペトロは確かに「あなたは、メシアです」と告白しました。元の語であるギリシア語を見るとペトロは「あなたはキリストです」と告白しています。でも日本語の聖書も英語の聖書もここは「キリスト」と訳さずわざわざ「メシア」という訳を当てています。どうしてでしょう。聖書の後ろ側に「用語解説」という欄がありそこには簡単な解説が載せられています。「メシア」という項目にこのような解説が記されています。抜粋して紹介します。メシアは「『油を注がれた者』の意で旧約聖書では39回用いられている。<中略>神の決定的な救いをもたらす『救い主』を指すようになった。新約時代の人々は政治的解放をもたらすメシアを待望していたが、イエスはそれを拒否し、十字架の死によって人々を罪から救うメシアであることを主張された。」説明の意味が理解できたでしょうか。要するに神さまはイエスを十字架の死によって人々を罪から救うメシアとしてこの世に派遣されましたが、人々はそれを受け入れることができず、あくまでイエスを政治的解放をもたらすメシアとして期待したというのです。

 ペトロはイエスこそローマ帝国やヘロデ家に支配されたイスラエルに政治的な解放(当時ユダヤ人たちは自治権や司法権等を自分たちで持てず、イエスの処刑に際してもユダヤ人は処刑の権限がないためローマに処刑してもらわないといけなかった)をもたらす「メシア」であることを期待して「あなたはメシアです」と告白しているのです。しかしそれはペトロの思い描くメシア像であってイエスが主張している本当のメシアではありません。イエスは自分は多くの苦しみを受け、排斥され、殺され、三日目に復活することを通して人々を救うために神から遣わされたメシアであると主張しますが、ペトロにはそのようなメシアが受け入れられないのです。だからイエスを脇に連れて行っていさめるのです。このペトロの姿から自分に都合の良いようにキリスト像を作り出してそれを妄信し、数々の過ちを犯してきたキリスト教会の歴史を思います。

 イエスはそのように誘惑に弱く過ちを犯すペトロ、そして私たちの共同体に語りかけます。「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」「自分を捨て」というところは聖書によっては「自分を否定し」と訳されています。英語でいう“deny(否定する)”ですね。自分に都合よく好き勝手にキリスト像を思い描く自分を否定しなさい。聖書が証する十字架のキリスト・イエスに従いなさい。そしてあなたも自分の十字架を背負いなさい。そう呼びかけられています。非常に重い言葉です。なかなか即座にまた単純には「はい」とは言えません。それでもやはり私たちは特にレントの時期、イエスの言葉を改竄することなく向き合う必要があります。キリスト者としての一種の意地をもってイエスの言葉と向き合い、神さまからたくさんの恵みと祝福を受けて生かされている者としてそれぞれが応答する必要があると思うのです。

ここから先は

0字
この記事のみ ¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?