「私の喜び」

こんにちは。先週の礼拝メッセージを公開する気になれなかったので一週間ぶりの更新となりました。

本日2022年5月29日(日)に行った四街道教会の日曜礼拝におけるメッセージを公開します。本日はアジア・エキュメニカルサンデー、八街西伝道所とのオンライン合同礼拝でした。

聖書箇所は新約聖書のヨハネによる福音書17章1〜13節です。

タイトル:「私の喜び」

本文:
おはようございます。今日は同じ地域(千葉支区北総分区)にあり、代務体制となった八街西伝道所の皆さんとオンラインで合同礼拝を行っています。八街西伝道所の皆さん、声は聞こえていますでしょうか。今年度は第5週の日曜日は八街西伝道所の皆さんと共に礼拝をおささげしますので、どうぞお祈りにお覚えください。

さて今日は教会の暦では復活節最後の日曜日である第7主日です。先週の木曜日には昇天日といって新約聖書の使徒言行録に記されている甦ったキリストが天に昇られた出来事を記念する日でした。次週の日曜日はペンテコステ、弟子たちの上に聖霊が降り力を受けて世界中に福音を届ける働きがなされていったことを記念する祝いの日を迎えます。

使徒言行録によると十字架につけられて死なれたイエスは神の力によって復活し、40日にわたって弟子たちの間に現れました。復活してすぐに神さまのもとに行ったのではなく40日間は地上におられたのです。それは使徒言行録によるとイエスの復活という出来事が弟子たちの体験した幻ではなく、確かなものであると証しするためであり、神の国について話すため、いわば弟子たちに最後の授業をするための時間でした。

この40日間を終えるとイエスは天に昇っていきます。それを見ていた弟子たちの心境はどのようなものだったのでしょう。おそらく彼らは神の国が完成する時が来たと思いました。映画で言うとエンドロールが流れることを予感した弟子たちですが、残念ながらエンドロールは出てきません。イエスは弟子たちに終わりの時や時期は隠されていて天の神にしか分からないと語り、終わりの時が来るまであなたがたは天の神からの聖霊の力を受けてすべての地で私の証し人となって生きなさいと語ります。

ここで大切なことは私たちはただの観客ではないということです。映画なら映画館に行って座っていればどんなにつまらなくて長く感じる映画でもやがてエンドロールが流れます。しかしイエス・キリストという神の物語は私たち人間に対してこの物語に参加することを求めています。いつの日か神の国が完成し、エンドロールが流れるまで私たちが受け身でいるのではなく、聖霊の力をいただいて主体的にこの物語に参加し、この世界に仕えていくよう促すのです。

今日朗読されたヨハネによる福音書17章にはイエスの祈りが記されています。この祈りはイエスが十字架につけられて殺される前日になされたものです。権力者側の圧力が強くなってきた。自分は聖書の預言者たちのようにもうまもなく迫害を受けてこの世からいなくなってしまうかもしれない。そのような状況でイエスは緊張し、恐れ、もだえながらもさまざまな言葉や行動を弟子たちに残して最後に天の神に祈られるのです。祈りの初めは「自分が神の栄光を現すようになるために、私に栄光を与えてください」という祈りです。イエスは自分が殺されるという運命を予感しています。とても恐ろしい予感です。できるならそんな運命から逃れたいと思うのが普通でしょう。しかしイエスは自らの生き方、立ち位置、態度を変えるということをしませんでした。たとえ自らの生き方のせいで殺される運命にあったとしても、そのことを通して残された人々に神の栄光を現すことができるように私を励ましてください。栄光を与えてください。そう祈るのです。

 大変教えられる、また私たちが模範とすべき祈りです。たとえ迫害を受けることがあっても生き方や態度は変えない。そしてたとえこの生き方ゆえに死んでしまうことがあっても、その死が無駄にならずに残されたものに良いものが残せる、栄光を現せるのだという希望の光を与えて欲しい。そのような祈りと態度でもって生きてきた歴史よりも妥協して生き延びることを優先してきた歴史の方がはるかに多いキリスト教だからです。

今日はアジア・エキュメニカルサンデーです。以前わが家にホームステイに来てくださったインドネシアのクリスチャンの方から頂いた「サロン(マレー語で「袋」を意味)」という腰布を身につけて礼拝しています。

画像1


日本とアジアの関係を考える時に先の戦争のことを考えずにはいられません。天皇を神と崇め、軍事独裁体制を強化していった日本に対して日本のキリスト教会の大半は教会が無くなり、キリスト者が死んでしまったらもう何もできない。とにかく生き残ることが大切だと考え、態度や生き方を変えて朝鮮半島の人々には神社参拝を強要し、自らも礼拝堂に飾られた御真影に再敬礼しました。当時を経験していない私たちがあまり厳しく戦時下の教会を批判することはできませんが、妥協して生き方や態度を変えてしまうくらい大きな恐怖を経験した歴史を覚えつつ、同時にイエスの祈りを心に刻みたいと思います。神は死者を復活させることのできるお方です。神に従って生きる生き様のゆえに世の迫害を受けたとしても、またそれによって命を落とそうとも神はその人を通して周りの人たちにご自身の栄光を現すことができるお方であるとの信頼を持ちたいと思います。

実際にキリスト教の歴史を覗いてみると、決して簡単ではない局面で世に妥協せず神から与えられた生き様を生き抜いて困難を経験した人たちを通して神の栄光が現されることがたくさんありました。この後に歌う賛美歌は「勝利をのぞみ」という一曲です。英語の「We shall overcome」という名前の方が知っている方が多いかもしれません。黒人霊歌。アフリカン・スピリチュアルと呼ばれる一曲で、「私たちは乗り越えられる!」と歌います。かつて公民権運動の際に好まれ、歌われた賛美歌です。彼らは世に妥協しませんでした。数々の困難があり、迫害があり、暴力や逮捕、監禁という事柄を経験してもなお神に従って生きるこの生き方を通して私たちアフリカ系アメリカン人は神の栄光を現すことができると信じて平和の行進を歩み抜いたのです。その歴史から私たちは多くを学びたいと思います。

イエスはその後に天の神から自らにゆだねられた人々について祈っています。11節「わたしは、もはや世にはいません、彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。」端的に言えば「彼らを守ってください」との祈りです。イエスがどれだけ私たちを大切に思っているかがわかります。さらにこういう言葉が続きます。12節「わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。」そして彼らは「わたしの喜び」であり、私の喜びが彼らの内に満ち溢れるようにと祈っています。

イエスにとって、天の神に与えられた人々とのこの世での生活は喜びだったのです。別に弟子たちや群衆がイエスのために何かができたから喜びだったと言っているのではありません。ただ一緒に過ごした人々の存在そのものが私の喜びだったと語られています。それはまるで親が子の存在そのものを喜びと捉えるのと同じです。何かができるからではなく存在そのものを喜びとし、この世で一緒に過ごした日々を喜んでくださったのです。そしてイエスはいまこの喜びがあなたたちの内に満ち溢れるようにと祈ってくださっています。皆さんの心はこのイエスの喜びで満ち溢れているでしょうか。ルックスや能力、功績ということは一切関係なく、イエスに惹かれてイエスを信頼し、イエスの言葉を守ろうとする私たちの姿を見て喜んでおられます。

ここから先は

0字
この記事のみ ¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?