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日時:2024年7月7日(日)十日町教会 日曜礼拝

聖書: 旧約聖書 創世記4章1~16節

説教題: 「えこひいき」

本文:

ヤバい神

 2022年に『ヤバい神 不都合な記事による旧約聖書入門』(新教出版社、2022年)というキリスト教の本が出版されました。著者はドイツ出身のトーマス・クレーマーという聖書ヘブライ語と旧約聖書を専門とする学者です。彼は現在フランスにおける学問と教育の頂点に位置する国立の特別高等教育機関、コレージュ・ド・フランスの教授として教鞭を取っています。この本が日本語に翻訳されて出版すると非常によく売れました。それだけ日本の信者、非信者問わず旧約聖書に記された例えば大虐殺命令(女も子どもも皆殺しにしろ)とその実行といった「ヤバい」物語をどう受け止めれば良いか疑問を持っていたということです。毎年キリスト教書店が本屋大賞という企画を行っていますが、2022年に出版された『ヤバい神 不都合な記事による旧約聖書入門』は重版出来しまして見事、2023年のキリスト教書店大賞第2位を獲得しました。ちなみに1位は『LGBTとキリスト教 20人のストーリー』という本でした。こちらもキリスト教内外問わず多くの人がキリスト教はLGBTと呼ばれる性的少数者に対してどのような態度をとっているのか知りたいという興味と関心の現れが反映されていると言えます。本日は2023年のキリスト教書店大賞第2位を獲得した『ヤバい神 不都合な記事による旧約聖書入門』の第5章「神は暴力と復讐の神なのか」という文章をもとにしてご一緒に神さまの思いに心を向けたいと思います。

旧約聖書のヤバい記事をどう読むか

 旧約聖書は何の予備知識もなしに読めば内容に強い違和感を感じる書物です。創世記1章から本当に世界ってこんなふうにできたのかと疑問を持ちます。こんな「ヤバい」書物がなぜ信仰の基礎である正典なのか。この問いに対して著者は、旧約聖書のテクストをそれが書かれた歴史的状況に沿って理解することで答えようとしています。旧約聖書は歴史の中で紡がれたテクストの集合体です。創世記の初めの部分は事実と言うより人が直面している現実をなんとか説明・解釈し理解しようとする試みから生み出されたものです。人間の世界には暴力が存在します。私たちが生きる現代においても戦争、紛争、家庭内暴力、性暴力、ハラスメントなどありとあらゆる暴力に取り囲まれていることが分かります。創世記4章は家族の物語ではなく暴力の起源を説明しようとする物語です。この物語は暴力が世に満ち溢れていることを前提に描かれています。そして暴力がいかにして生まれるのか、暴力はどのように対処され得るのかを説明しようと試みています。創世記4章には理解困難な箇所が多くあります。それは書き手が直面した困難を反映しています。その困難とは暴力的行為とそれに対する神の役割をどう理解するかです。物語を読むと暴力は神のえこひいきによって起こります。兄カインと弟アベルが神のもとに献げ物を持ってくると、神はアベルとその献げ物に目を留めますが、カインとその献げ物には目を留めません。

私たちが人生で経験すること

 これは私たちの人生と同じです。人生は不公平でいつも予測不可能です。しかもそれは筋が通った説明ができないことが大半です。頑張っていたのに報われず、大して頑張っていない人が目をかけられて出世する、成功するということがよく起こります。創世記4章で神がカインに突きつけるのは、不公平さは誰もが人生で経験するありふれたことであるという事実です。そしてここからが問題の核心です。暴力が生まれるのはこの不公平さ、人生で誰もが大なり小なり必ず経験する不公平さを受け入れられないことに起因すると物語の書き手は考えています。物語を注意深く読むとカインとアベルは扱いが異なっていますが、神はカインを拒んだわけではなく、ただアベルとその献げ物にだけ目を留めただけです。しかしカインはこの不公平に対して激しく怒って顔を伏せます。カインに対して神が語る言葉の中に聖書において初めて「罪」という語が登場します。私たちが聖書を読む時には一種の刷り込みがあって創世記3章に記されたアダムとエバの失楽園の話、禁断の果実を食べるところに原罪という罪があると思い込んでいますが、聖書において最初に「罪」という語が登場するのは今日の4章7節のところです。聖書において「罪」とは神の命令を破ることではなく暴力に支配されることを表す語として最初に登場します。

カインとアベル

 カインは自分と弟の間に生じた不公平さに我慢できず暴力に支配されアベルを殺害しました。ここで物語の書き手が言い表したいもう一つの事柄にも目を向けたいと思います。それはカインとアベルという名前を通して知ることができます。まず兄のカインという名は良い名です。「槍、鍛冶屋、職人」といった意味があります。あえて日本語名にするなら「剛くん」。実際に17節以下を読むと彼は町を作り、その祖先たちは畜産、音楽、文明の作り出す力がありました。一方でアベルという名は良い名ではありません。おそらくアベルという名を実際につけた人は歴史上いないでしょう。ヘブライ語で「アベル」と同じつづりの「ヘベル」という語には「霧、微風、空しさ、息」という意味があるからです。旧約聖書・コヘレトの言葉の冒頭に「空の空 空の空、 一切は空である」という言葉がありますが、そこで「空」と訳されている語が「ヘベル」です。こちらもあえて日本語名にするなら「弱くん」。アベルという名は脆さや弱さを表していますから、もしかしたら彼には生まれつきの障がいがあったのかもしれません。

強い人、弱い人

 強い人が手厚いケアを受ける弱い人に対して、「私が払っている税金が自分のためではなく生産性のない人間にたくさん用いられていて不公平だ!」そのような不満を述べて言葉や態度で暴力を振るう現実を私たちは知っています。そのような考えが支配する世界、強者が弱者に暴力をふるう世界は果たして正しいのか。神の心にかなっているのか。この問いに対して創世記4章は否を突きつけるのです。神の愛は平等ではなく公平に注がれます。その愛はより低い方、弱い方へと傾斜をつけて注がれカインにとってもアベルにとっても公平な世界を実現しようと働き、私たちもこの神の愛にならって世界を生きることが期待されています。

暴力の連鎖

 しかし現実は神の期待するとおりにはいきません。カインは激しい怒りに支配されてアベルにむき出しの暴力を振るい彼を殺してしまいます。そしてカインは神との会話の中で暴力が連鎖することに気づきます。いまは強いカインも歳を重ねたら、病気や障がいを得たら、あるいは見知った土地から見知らぬ土地に引っ越したら、弱者となり今度は自分が暴力の餌食になることを理解してこう述べるのです。「わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」暴力に支配され殺人という罪を犯したカインはその後、どうなってしまうのでしょうか。それはひいては神の心から離れ、罪を犯して生きざるを得ない私たちがどうなってしまうのかということにも関わってくる重要な問題です。この問いに対して聖書は殺人という大きな罪を犯したカインですら神はしるしを付けてなおも生かそうとすることを告げます。それはつまり私たちすべての人に対して生きよと呼びかけておられるということです。カインは町を作り、その子孫は畜産、音楽、そして鉄器製造によって繁栄します。

イスラエルの歴史

 死刑に相当する罪を犯した人間が相応の罰を受けることもなくなおも生きることを神は赦される。このようなことは私たちの社会では受け入れられません。犯した罪に応じて法に定められた通りに罰を受けるのが法治国家の有り様です。しかし創世記を執筆・編集した人々はカインの立場、つまり自分たちは命をもって償うしかない罪を背負っているという立場に立ちながら、神はそのような人間の罪を赦してなおも生かす存在であると信じました。なぜでしょう。それはこの物語が成立した時代状況から理解することができます。本日の物語自体はイスラエルがアッシリアやバビロニアに滅ぼされるずっと以前からあったものですが、殺人を犯したカインが赦され、その後に町まで作るという物語に発展したのはバビロン捕囚期もしくはその後のことだと考えられます。彼らは自分たちの国が滅びた原因が神に対する自分たちの不信や罪であることを痛感していました。彼らは他の民族を同じように消えて無くなっていく運命にあるのかという問いに立たされます。そしてそこにおいて罪人カインが神からしるしを付けられなおも生きることが赦されたように、自分たちも神によって赦されふたたび神の守りの中で生きていくことができる、国を再興できるという信仰に立ったのです。

 歴史上古くから法治国家は存在していました。しかし法律とは犯罪の抑止力ではなくあくまで犯した罪を明るみにして、これを法に定められた通り正しく裁くために機能してきました。ですから罪が裁かれた後も罪は前科という形で残ります。人間の罪は増える一方で減ることはありません。一つの国が衰退して滅びを迎えるときには、これほど多くの罪が蔓延しているのだから国が滅びてもしょうがないことだと人々は納得し、その国が再び復活することはありませんでした。しかしイスラエルだけは違います。彼らはダビデ王の時代にイスラエルという国家を築きますが、やがて南北に国が分断され、それぞれが滅ぼされバビロン捕囚という出来事も起こります。ただ彼らが他の国家と違うのは、長い捕囚から解放されたのちにふたたび国家を築いたということです。イスラエルという民族国家が再興できたのは彼らの持つ宗教観、すなわち自分たちの神はどのような方なのかということにによっています。彼らは自分たちが取り返しのつかない罪を犯したとしても、神はそれを赦してくださる方だと信じました。本来なら命によって償われるべき罪を神は赦す方であると信じ、彼らは国を再興させたのです。

ゆるしのしるしを付けられてなお生きる

 私たちの誰もが大なり小なり罪を犯す存在です。時にとりかえしのつかないこともしてしまいます。それこそ命を持って償わなければいけないと思うことも。しかし神さまはそのような私たちを赦してなお生きることを良しとしてくださいます。聖書の神が罪人カインになおも生きられるようしるしを与える方であるという信仰に立ち、いついかなる時にも赦され生かされているという喜びを噛み締め感謝して生きたいと思います。

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