体を大切にしましょう

2022年1月30日(日)の主日礼拝メッセージ原稿を投稿します。

旧約聖書:歴代誌上29章(1〜5)6〜19節

新約聖書:コリントの信徒への手紙一6章12〜20節

 今日の聖書朗読では偶然にも先週の説教で引用したコリントの信徒への手紙一6章の12〜20節が朗読されました。まずここに出てくる誤解を生む語について当時の習慣を説明いたします。古代コリント、つまりギリシアの社会的世界では売春は法的に認められ、社会に広く認知された習慣でした。古代ギリシアの世論は男性に性的な自由を実質上制限なく許していました。そんなことを聞くと現代の私たちは驚くかもしれません。今から2000年前にはそんなことがまかり通っていたのかと。しかし私たちは今住んでいるこの国の歴史にも正しく目を向ける必要があります。というのも日本でも第二次世界大戦以前は公娼制度がありました。私が最近読んでいる本の一つに井上輝子さんという方が書いた『日本のフェミニズム 150年の人と思想』があります。この本には日本で江戸時代に「遊郭」という一定の制限地域で売買春を認める公娼制度があり、明治になって一旦は「芸娼妓解放令」を出して公娼制度を廃止しますが翌年には形を少し変え、国の法律上は廃止されたものの内務省の監督下に府県単位で再編され、第二次世界大戦後に廃止されるまで継続した歴史を記しています。この本の中に端的に公娼制度の問題点、差別性が指摘されていますのでそこを引用して終わります。


「貧困に陥った家庭では、親がある程度まとまったお金を受け取り(前借金)、娘を遊郭等に引き渡す。娘は自分の稼ぎから借金を返済するという名目で客を取らされるが、利息や衣装代その他さまざまな名目で借金が増える仕組みになっており、………一種の奴隷状態におかれることになる。一方公認の遊郭と『性病検査』を受けた公認の娼妓が存在することによって、男性は、金さえ出せば性病の心配もせず、………売春することが可能であった。しかも、『貸座敷』からの税金は膨大な額に上り、地方財政を潤したという。女性を犠牲にしつつ、男性の性欲のはけ口として、また府県の収入源として、公娼制度は長きにわたって続いたのである」(井上輝子『日本のフェミニズム 150年の人と思想』有斐閣、2021年12月、28ページ)。


 日本の公娼制度の歴史から分かる通り、公娼制度を利用し、甘い汁を吸う男性や社会に大きな問題があります。コリントの信徒への手紙の著者の立場は娼婦と交わることに否定的ですがそれは娼婦自体が汚れている罪人だからでは決してありません。むしろ手紙の著者はその制度を生み出す社会そのものに神に背く大きな罪があり、その制度、構造を利用して甘い汁を吸うことに罪を見出しています。だから娼婦と交わって罪を犯さないようにと警告しているのです。

 古代コリント社会に限らず古代ギリシアの人々の思考は二元論的(二元論的って分かりますかね、善と悪とか男と女という風に単純に二つに分けて考えることです)で、頭で考えることは高尚で優れた思想や哲学は永遠に残るから価値があるけど肉体は死んだら滅びてしまうから劣っていると考えました。だから頭の方が価値があり、首から下の肉体は劣っているから何をしても良いと考えたのです。腹が減ったら何でも食べ、性的満足が欲しければ娼婦と交わっても良いのだという考えが古代ギリシアの男性の一般的な価値観でした。そういう二元論的思考が行き渡る社会の中で手紙の著者パウロは体の大切さを説き、「体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。………あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか」と話を展開して行きます。パウロが言いたいことは娼婦が罪人だということではなく、あなたがたの体はキリストの体の一部なのだから頭や心だけでなく首から下の体でも罪を犯すなということです。そして結論として「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」と勧めるのです。

 私はこの聖書箇所を通して改めて古代ギリシアの二元論的思考が初期のキリスト教が活動した社会に蔓延していたということを教えられました。そしてそのことを通して私たちが毎週の礼拝において告白している使徒信条の「からだのよみがえり」が持つ豊かな意義の一つと出会いました。私たちは古代ギリシアの二元論的思考のようにイエスさまの思想や哲学にのみ価値を置き、イエスさまがその体を使って為した一つ一つの事柄を無価値なものとはしません。イエスさまの思想が死を超えて永遠に残っているだけでなく、体を用いてなさったこと、特に十字架と復活という救いの出来事が永遠に残るのだと信じて私たちはイエスさまの「からだのよみがえり」を告白します。そして使徒信条を通して「からだのよみがえり」を告白するキリスト教会は、信仰があって頭や心でイエスさまを救い主と信じてさえいれば体は何をしても良いのだとは決して思いません。キリストの体の一部となっているこの体を誤って使うことは創造主なる神さまを侮辱することになるのだと自覚し、死ぬまでこの体を御心に適うよう大切に用い、また体を大切に用いて生きることを周りの人たちにも伝えていくのです。

 皆さんコロナ禍でついつい長時間にわたって家飲みしていませんか。また外に出るのが億劫になり運動不足になっていませんか。ついつい夜中までスマホやサブスクの動画を観て、寝不足の日々をお過ごしじゃないですか。神さまから与えられたこの体、売春や薬物や暴力などに用いないことはもちろん、暴飲暴食をしないことや適度に運動し適切な睡眠を取ることも体を大切にすることです。神さまに与えられ、また神さまに買い取られたこの体を大切に用いましょうね。

<参考・引用>
井上輝子『日本のフェミニズム 150年の人と思想』有斐閣、2021年。
宮平望『マルコによる福音書 私訳と解説』新教出版社、2008年。
R.B.ヘイズ(焼山満里子訳)『現代聖書注解 コリントの信徒への手紙1』日本キリスト教団出版局、2002年。

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