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SNSが怖い

私はSNSが苦手だ。
そういう意識が生まれたきっかけは大学の時のTwitterだった。
当時はInstagramはそれほど流行っておらず、Facebookと Twitterがメインだった時代。
学科のみんながTwitterで繋がっていた。

大学3年で研究室を選ぶ時期だった。
私の学科では各研究室の定員の半分が成績の良さ、半分は成績に関係なく話し合いやくじ引きで決めるという方法をとっていた。
成績があまり良くない学生としては、自分の希望の研究室への申し込み人数が過剰になることは好ましくない。
そんな中、Twitterで1人の学生が「〇〇研究室に行きたいから、みんな希望しないといいな」と牽制するようなつぶやきをした。
それを見てしまった以上、その研究室を希望しにくくなった人はいたはず。
私もその1人だった。
でもそのツイートを見なければ、そんな牽制を受けることも、配慮してしまう気持ちも生まれなかった。

そう思ったら、ひどく馬鹿馬鹿しく思えてきて、私は自分のTwitterのアカウントを削除した。

それはTwitterをやめる最後の引き金になったけれど、それまでもSNSを眺めている殆どの時間は浪費だと感じていたし、自分が何か発信したときに周りの友人がどのように反応するかが気になって仕方ないのも何だか惨めな気分だった。

Twitterを辞めたことで、学科の皆が顔を合わせていない間にTwitter上で進んでいる話に乗り遅れることがあったし、それに伴って心的距離が離れてしまった人もいた。
それに後悔はないけれど、顔を合わせていない間の時間のせいで距離があくというのも本来おかしな話だと今は思う。

その後数年、SNSから離れていたが、今は見る専門のInstagramのアカウントはある。

やっぱり、いまでも友人がたくさんいるアカウントで発信するのは怖い。
色々な距離感の友人が混在する場で、自分の発信がどう見られるか、自分の発信で誰かを嫌な気分にさせないかが怖いのだ。
わかりやすい例で言えば、子どもに関することは、子どもが欲しくてもできない人のことや、そもそも子どものことなど興味がない人のことを考えてしまい投稿ができない。

ただ、そんな風に発信することを恐れていたら、自分の思いや考えを内にとどめてしまう癖がついてしまった。それと同時に、発信することで久しく会えていない友人と話をするきっかけになったり、自分の発信に意見をもらえるきっかけであったりと、SNSのいい面を享受することもできなくなった。

noteに書き綴るようになったのは、自分の思いをアウトプットする癖づけが目的だ。でもまだまだ、自分の友人とたくさん繋がっているSNSで発信する勇気はない。

こうして取り残されてしまうのかしらと時々不安になるけれど。
昔と比べて発信することのハードルが高くなったというのは、SNSの種類はどんどん増えているのにおかしな現象だ。
意外と私と同じように思っている人も多いのだろうか。もっと気軽に発信できるものが増えればいいのにと思う。

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