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−×−はなぜ+か?燃えるとは?附属中の授業が面白い

−×−はなぜ+になる?
確率を実証しよう
燃えるってどういうこと?
豚の消化器系と目を解剖しよう
ドラマ暴れん坊将軍はどこまで本当か?
推しの会社の株を買ってみよう

これらは当時私が中学生だったときの授業のお題の一部だ。
私が通っていた附属中では大体どの教科もこんなふうなお題に基づいて授業が進んでいた。

確率の授業ではポップコーンを永遠に投げ続けて口に入る確率を調べる生徒がいたり、サイコロを何週間にも渡って何千回と振り続ける強者がいたり。

燃えるとは?という授業では、炎の有無だとか、燃焼の前後のものの変化だとか、中学生の知識に基づいて色々な角度から考えはじめてみたり。

推しの株を買う授業では、自分の好きな会社を選んで他の生徒にも推してもらえるように会社情報をまとめたり、実際に企業にインタビューに行ったり。最後にはクラスの選考を勝ち抜いた企業の株を皆でお金を出し合って買い、学年末に売って金額を分け合った。値下がりして赤字だったような…。

流れとしては、先生が練りに練ったであろうお題を提示し、個人もしくは数人のグループで下調べや考察をし、レポートを提出。提出後に全てのレポートを印刷して配布し、ディスカッション。最終的にクラスとしての結論をまとめるまで、約2〜3ヶ月ほど。

1つの教科につき年間を通して数個のお題しかこなせないので、当然教科書の内容を全てこなすことはできない。というか、そもそも教科書を開いた記憶がないし、先生方も指導要項をこなそうという考えを持っていない。

授業の主体は生徒で、先生はほぼ進行役。ただ、冒頭に記載したようなお題についての答えは、あるような、ないような、という感じなので、時には先生も白熱する議論に参入することも。生徒は相手を打ち負かす勢いで闘志を燃やし、議論に臨むので、議論が深まると内容が大学レベルに入り込むこともある。

ー般的な勉強は個人や塾任せだ。
昼間は学校で議論やら行事に熱心に取り組み、放課後は各々塾で今度は高校受験のための勉強に取り組むといった生活だった。

今思い返しても生活が色々と強烈すぎて脳裏に焼き付いているし、議論中に喧嘩のようになって泣いたことなんかもあったのがいい思い出。
相手をどう説得するか作戦を練ったり、ポンポン反論が浮かんできたり、いいことも悪いことも、自分の考え方の根幹はこの3年間で型作られたのだろう。

この頃のことを思い出すと、私は自分の頭が空っぽになるくらいまで意見を交わす機会を再び欲してしまう。
おそらく日本の教育において、自分の意見をゴリゴリ押し出して勝負事のように議論をするような機会はそれほどないと思う。
でも是非、附属中のような特殊な環境にいない学生にも経験してみてほしいし、なんなら大人にもこんな機会があればいいのにと思う。

そんな場を作ってみようかなと密かに画策中。

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