シャニアニから感じた目的意識-シャニマスの世界の再現と矛盾への挑戦について-


はじめに


アイドルマスターシャイニーカラーズの初のアニメ化作品がつい先日、先行劇場公開で全ての章が公開された。これを以て、5thライブで予告なくされたアニメ展開が一区切りとなった。このnoteは、第3章までの視聴を通して感じたことを元に拙いながら推論立てた「シャニマスはアニメで何がやりたかったのか」「何故それやる意味・意義があったのか」を個人的な整理としてまとめたものである。

事前の注意事項として、前述の通り、このnoteはあくまで筆者個人が感じたこと、及び推論がメインの内容となる。コンテンツそのものに対する非難、特定の方向性の意見の否定、読者の方それぞれの感想に対する何がしかの強制などを意図したものではないこと、内容としてはこのアニメ作品に対して大いに肯定的なものとなることにご留意いただきたい。また、内容は一部筆者のXで既に発信した感想のポストと重複している。

以下では、アイドルマスターシャイニーカラーズのアニメ作品を、公式に倣い「シャニアニ」と記載させていただく。

シャニアニを大別するならば、プロローグである1話、それぞれのユニットのメイン回である2〜5話、最初の大きなイベントであるWINGの前後を取り扱う6〜8話、そして283プロの1stライブを取り扱う9〜12話といった構成となるだろう。これらを切り分けて、考えていきたい。

1話

シャニアニにはシャニマスの中でも初期から実装されている16人のアイドルが登場している。また、第1話ではアイドルになる前の彼女たちを描くことで、「一人一人が自己紹介をする」「特徴がわかりやすいシーンを逐一挟んで印象付ける」ことはせず、意味深な16人分のカットを使って、「このアイドルには何かあるのかもしれない」「あの場所にいたってことは、もしかして〇〇していたのか」など、想像を引き立てるような描写となっていたのが印象深い。

また、同じく1話ではシャニマス全体のセンターを努めているといっていい真乃のスカウトシーンを描いており、そしてその始まりとは、「アイドルとして初仕事をした時」ではなく、「普通の女の子がアイドルになろうとした瞬間」なのだと描いてくれたように感じる。

この1話を持ってシャニマスが何をしたかったのか、個人的な想いとしてはやはり「あの日のプレイヤーの追体験」だろうか。

筆者はサービス開始時よりシャニマスをプレイしていた訳ではないが、当時に何があったのか、どういう形でゲームが進んでいたのかに対しては知識として知るところがある。

シャニマスは現在でこそ、一人のアイドルを選び、そのアイドルとの出会い、wingに至った姿をチュートリアルで見ることが出来るが、初期の頃はまず真乃との出会いを見てチュートリアルが始まっていた。そして、チュートリアル後にアイドルごとにわかりやすい自己紹介が読めることはなく、それこそプロフィールやサンプルボイス以上の情報は実際にそのアイドルをプロデュースしないとわからない状況になっていた。この状態では「顔と名前、大まかなキャラクターだけは知ってる」という、コンテンツに入ったばかりの人間の殆どが経験ある状態であると思う。
「真乃がどうやってスカウトされたかはわかったけど、他の15人はどうしてなんだろう」、「ガシャからイラストだけ見たけど、この子達は何をしてるの?」そんな余白こそ、彼女たちの物語に触れたいと思うモチベーションの一つになりうる。そして、プレイヤーが彼女達をプロデュースしようと思ったその時、彼女達との出会いの物語が始まり、彼女達はアイドルになる。「アイドルになる前の彼女達と、真乃のスカウト」により始まるこの瞬間は、確かにシャニマスの「真乃のプロデュースから歩み出した」「今この場所からアイドルと出会っていく」というスタートラインを描きたいのだと感じさせてくれた。

2〜5話

続く2〜5話では、順にユニットがメインを張っていく展開となった。

特筆すべきは、ゲーム内シナリオと展開を寄せたのはイルミネーションスターズのみであることだろう。他のユニットは言及により、それぞれのゲーム内シナリオにおける初めてのユニットイベントが終わっているものと描写されていた。その上で3ユニットは「ゲーム内シナリオの後に挟めるイベント」としてそれぞれのメイン回を作り上げており、シャニマス初期のイベントシナリオの流れを組みつつ「最後に楽曲を流して締める」というノルマを満たすため、楽曲自体のテーマに合ったシナリオとなっていたと思う。

また、唯一ゲーム内のシナリオ、「Light up the illumination」をなぞる形となったイルミネのメイン回である5話においても、ライブ前の舞台袖で終えたゲーム内のシナリオの"先"であるライブを見せることで、「確かにゲーム内シナリオをリスペクトした上で、アニメだからこそ出来る"その先"」を演出してくれたと感じる。つまり、ゲームにないものを付け足した形だ。

そう、シャニマスにおけるゲーム内シナリオでは、実際のライブシーンの描写や、楽曲の話が出ることは殆どない。それは立ち絵を動かす、一枚絵を出す、声優の演技といったシナリオ演出で、数分の楽曲を流し、ダンス・歌い方の機微を余す所なく伝えるのは難しいという視点があるためだろう。また一方で、最近実装されているゲーム内シナリオでは、楽曲を歌唱なしで流してライブの場面のbgmにする、歌い出し・終わりを使って収録やライブの開始・終了を演出する、など様々な手法が取られており、MVとして演出がつけられ、コミュ内容も楽曲に沿ったものとなるマイソングコレクションという新たなカードの実装など、楽曲を含めた物語は多くなっている。がしかし、根本的に「ライブシーンの全てを演出することは出来ない」という都合上、限界というものが存在するだろう。
これはコミカライズでも同様で、複数のコミカライズでは「ライブシーン」こそあれど、やはり一つの楽曲をフルに使ったライブシーンとなると、一つの描写にアニメよりも詰められる情報量が多くなる媒体だけに、一から十まで歌とダンスを見せつけるだけの漫画では間延びしてしまうだろう。現に、ライブシーンは基本一部の抜粋であったりする。直接曲を流せる訳ではない、という意味も含め、こちらにも限界があると言えるだろう。

この限界を越えうるのが、アイドルマスターシャイニーカラーズソングフォープリズムことシャニソンと、今回のシャニアニである。いわゆる「実際に動かせるアイドル」を用いた動画形式という、ある意味ではリアルに最も近い形式だ。シャニソンは3Dモデルを使って楽曲だけではなく「ライブ・ステージの演出を表現できる」という、シャニアニとの共通点がある。つまり、一つの楽曲に関して「ステージを見せよう」とするならば、未実装の曲が多いことを加味してもシャニソンで事足りているわけだ。

しかし、そんなシャニソンとシャニアニには違いがある。大きな違いとして、シャニアニには「区切りのない一つの流れのストーリーの締めとして、ライブシーンを流せる」特徴がある。シャニソンではプロデュースによる育成を終えた後に再生される、シナリオ演出が組み込まれたメモリアルライブの機能があることや、シャニソンでの新楽曲には対応したシナリオが付属するなど、ライブに文脈を載せる機能こそあるのだが、育成中はゲーム部分であるプロデュースの傍らで断片的に短く区切られたストーリーを見つつ進行するものであったり、イベント楽曲も対応したシナリオ中で直接は披露されないなど、物語とライブの地続き加減という意味で、シャニアニの演出とは少々異なっている。

さらにシャニソンのプロデュースにおけるストーリーは基本的にenza版のゲーム内シナリオ、即ち曲そのものへの言及が元々少ないシナリオを元に作られており、その点でもシャニソンのストーリーにおける曲への言及は少ないものとなっているのだ。シャニソンのシナリオではenza版のシナリオを省略しつつも、新たな場面の追加があるのだが、こうした追加された場面でも「この後のメモリアルライブで披露する楽曲」についての話は見られない。シャニソンにおける新曲であれば、今後のイベントシナリオの描写により、直接ライブを披露する形とすることも出来るのだろうが、すでに実装されてしまっている既存楽曲に関しては、そうしたライブ演出が改めてシナリオと共に打ち出される可能性は低いだろう。

シャニアニではこれらを踏まえ、MVの撮影、曲と関わりを持つイベント、「デビュー曲として渡され、練習していくシーン」などを通し、「この一曲を披露する最後のライブシーンのために」物語を積み重ねていくことの出来る唯一の場所として振る舞ってくれたように感じる。

シャニアニは「初期の曲のライブを物語という文脈ありきで表現する」にあたって、最適な媒体を使って見せたかったのだと感じている。そしてそれは、他の媒体では限界があったことであり、初期のシナリオの再構成が一から出来る「初のアニメ化」というポジションをも活用できる描写方法である。この点には大きな意義を感じている。

6〜8話

ここではゲーム内プレイヤーとっても最初に提示されるイベントである「WING」を取り扱っていた。

さて、そのWINGについてなのだが、これはそもそもゲーム内ですら説明されていない事柄が多く全貌が謎に包まれたイベントであり、それに伴いシナリオの方にも一部に謎があるものなっている。ユニット出場形式でありながら、アイドル個人個人と初めて触れ合うシナリオでもあるため、当然個人の描写に注力が為され、シナリオ進行においては他のユニットメンバーには触れないことが殆どである。さらにもし触れたとしても、家族や幼馴染など、アイドルになる以前から繋がりのあるメンバーを除けば世間話程度、あるいは「一応ユニットは既に組まれていて、一緒に出てはいる」と確認できる程度の言及である。また、現在は8ユニットも存在している283プロにおいては、「全ユニットが逐一同じ大会に出場したのか?」「WINGはどの程度の頻度で開催されているのか?」「8週×4で8か月もWINGに費やしているのに、未だにアイドル達が年単位の変化を迎えることはないのか」などの点については、シャニマスのゲームのシナリオがいくら増えようとも疑問が残るものとなっている。

そんなWINGの終わりまでを別媒体で描いたのは、しのざきあきら氏による元祖コミカライズのみであり、こちらでは初期4ユニットがWINGに同時にエントリーしており、決勝へ進出、その後最終トーナメントを283プロアイドルのみで戦う、という描写となっていた。

シャニソンではWINGシナリオをカットしており、にちかなど回想でWINGのシーンがあるアイドルはいるものの、それがWINGであったことなのか、細部は異なるが似たような別のイベントを挟んだのかは言及なしとなっている。

つまり、WINGを扱うということは、「そもそも詳細がよくわからないイベントを取り扱う」「ユニットで出たらどうなるのか、283プロから複数のユニットで出た場合どうなるのか、というシャニマスのシナリオにはない部分を描かなければならない」という難しさがあり、正直にenza版の16人分のWINGシナリオを並べただけでも、プロデューサーの仕事量などがとても現実的なものとならない、ユニットメンバーへの言及が足りないなど、新たな問題が生じてしまうだろう。

そんな中、「16人で挑み、大きな舞台で競い合うもの」としてのWINGを描いたことは、コミカライズでしか出来なかった領域に手をかけた勇気ある描写だったと感じる他、そこに手をかけるほど「やりたい」描写だったと感じる。

そしてシャニソンとシャニアニに違いがあるように、このコミカライズとシャニアニでもWINGの描写に異なる点があった。それは勝敗についてだ。

前述したように、コミカライズではWINGの決勝はトーナメント制、それも283プロの4ユニットのみが競い合う形となり、最終的にはアンティーカの優勝で幕を閉じた。全ユニットを登場させつつ、イルミネを主体として進めてコミカライズとして、確かな落としどころであると感じており、こちらも個人的には好みである。

一方シャニアニでは、形式は不明ながら全ユニットが敗退するという形で幕を閉じた。即ち、決勝には恐らく別事務所のアイドルも出演しているという描写であり、アイドルである彼女達一人一人の負けであると同時に、283プロにとっても敗北でもあるということだ。

シャニマスにおけるプロデュースは、育成シミュレーションゲームの常であるかもしれないが、プレイヤーの経験と知識が少なく、プレイングの選択肢が狭い最初期が最も難しい。今でこそ初回プレイでWING優勝も不可能ではないこのゲームの初期では、多くのプレイヤーがWINGを目指す初回のプレイでは敗北を喫したことだろう。筆者もその一人である。そしてWING以外にも、シャニマスのコミュでは決して勝利だけがある訳ではない。敗北や戦い自体の中止、素直に喜べない苦い勝利なども取り扱われてきた。そこではアイドルの生きる世界において、勝利のみが必要な訳でも、勝利だけがアイドルの人生にあるべきものだともしない姿勢が見て取れる。そして、それはアイドルだけでなく、プロデューサーを通して283プロにも言えることであり、283プロもまた様々に味わってきたことである。しかし、ここでWINGはどうだろう。

確かに、多くのプレイヤーがWINGの敗退を経験している。そして、多くのプレイヤーがその先の「次の周」で優勝を体感しているだろう。そして[負けた記憶はプレイヤーの中だけのものとなり、「WINGでの優勝が前提となった」その後のコミュに触れたプレイヤーも多いだろう。

そう、シャニマスのコミュにおいて、「WINGの優勝」とは最早前提なのだ。WINGを優勝して初めてわかること、優勝しなければ見れない描写、優勝しなければアイドルの心になかった決意、そんなものが多くのコミュの中に登場している。WINGをシナリオの時系列に組み込むには矛盾が生じてしまうが、WINGの後に実装されたシナリオが「たとえWINGで負けていても同じ結論・似たような展開をそのまま同じタイミングで出せる」というのは否だろう。アイドルによっては、敗退シナリオはアイドルを続けるかどうかすらわからないものがあるのだから。まだアイドル達それぞれが「WINGは存在しない扱いだが、別の大きな仕事での成功で、WINGと同じような経験をした」として進む方が納得が出来るだろう。やはり、ここにも「まずこのゲームにおいて、出会いに続く第ニ歩となる区切りは、WINGの優勝である」「WINGの優勝という二歩目をこなすことで、先に進んでいける」というゲーム上の都合があるように感じる。

そうであるならば、どのような展開、どのような媒体であっても、WINGの優勝は必要だから描写しなければならないのか。

コミカライズではアンティーカの勝利だった。シャニソンは描写しないことでWING周りの問題をなかったこととした。そしてシャニアニが選択したのが「WINGの全員敗退してからの、アイドルと283プロのこれから」だったのだろう。

それはenzaやシャニソンでは描けない、「敗退コミュから繋がる先」だ。コミカライズはじめ他の媒体が「優勝が前提」のenza版のコミュに寄り添えば寄り添うほど出来なくなっていく「WINGの敗退ありき」を描いたのだ。

各アイドルの敗退コミュを見た時、ここから繋がる先を思ったことはないだろうか。敗退は「何度も挑戦できるゲームでの失敗」かもしれないし「負けたらこうなるという可能性にすぎない」のかもしれない。しかし、だとしても、敗退したアイドルを今度こそ優勝させた時、その優勝こそが敗退の後すら残さない正史となるゲームで、それでも、と敗北の先の再起を、そこにある文脈に夢を、見たことはないだろうか。

シャニアニは描いた。全員が敗退する道を。そしてそれで彼女達も283プロも何も終わらないこと、そこから羽ばたく物語があると証明してくれた。既存のプレイヤーは、この敗退を持って、16人のアイドルの敗退コミュを思い浮かべられるだろう。新規のプレイヤーはこのアニメから自分でプロデュースを行うおうとゲームに向かい、敗退した時にこの瞬間を思い出せるだろう。

「WINGの負けを前提で進む可能性」、ゲームの中では幻となったそんな選択肢の提示こそがシャニアニのWINGで描きたかったものなのかもしれない。

9〜12話、そしておわりに

3部に別れたシャニアニの最終章となるこの場面では、そのほぼ全てが1stライブに関する内容で構成されている。

その徹底っぷりを持って、この1stライブこそシャニアニで最も描きたかったクライマックスであると感じるのはそうおかしなことではないと感じている。


では何故そこまで1stライブを描きたかったのか。


シャニマスにおける1stライブは、現実に開催されるイベントとしては、唯一ゲーム内のシナリオで直接言及のあるイベントである。これ以外に言及ができない、というのが正しいのかもしれない。

シャニマスのシナリオでは時間の経過こそあれど、年単位での時間は進まない。最早全てを一年に収めるには無理があるほどに増えたシナリオ量ではあるが、実際に年を変えるわけにはいかない以上、一定の制約がある。また、現実で開催されるライブは、ゲーム内のシナリオと繋がりこそあれど、ゲーム内と「完全にリンクはしない」。それは「現実の時系列を持ち込むと5.5年も1年間の間の話をしていることになるギャップ」からであり、現実にはいないキャラクターのライブは完全に再現できないからであり、声優が演じているステージだからであり、「たかだか1ゲームのライブ」に過ぎないイベントだからであり、集まった観客をプロデューサーとして扱うアイドルマスターというコンテンツのライブだからである。もちろん、これは悪いことではない。矛盾を気にせず楽しむ人もいれば、声優のファン、アイマスのファン、自分をプロデューサーとして捉えてる人にとっては、むしろこうした扱いは心地よいだろう。そこに魅力は間違いなくあるのだ。

そしてだからこそ、真の意味で現実のライブとシャニマスのシナリオはリンクせず、また、この先も完全なリンクはしない。それはここまでキャラクターを演じ、パフォーマンスの向上に努めてきた声優陣やアイドルマスターを追ってきたファンに対するリスペクト、ブランドの都合、年単位で進まない時間を抱えるゲームシナリオにおける「前後のライブにある少なくとも数ヶ月のスパンをどう説明するか」という都合の悪さなど、様々な要因が挙げられる。少なくとも、「今より次のライブはもうアイドルが実際にやっているライブという体裁で完璧にやる」とする可能性は低いだろう。


そこでだ。シャニアニというコンテンツは、「初期から再構成し、このコンテンツの中でストーリーの流れを一貫して進められる」このコンテンツは、確かにやって見せたのだ。「アイドル達の物語と、完全にリンクした1stライブ」を。「キャラクターとしてじゃない、ゲームとしてじゃない、283プロダクションのアイドルが初めて全員揃ってプロデューサーじゃないファンに届けたライブ」を。


それは、もうコンテンツとしての矛盾への挑戦だ。シャニマスの物語を愛する者たちの、「ここはどうしようもない、仕方ない」という諦観への、一つの救いだ。


今このシャニアニを持って、「アイドルマスターシャイニーカラーズをイメージしたライブ」は、「283プロダクションの16人のアイドル、シャイニーカラーズが作り上げた、初めてのライブ」として描写されたのだ。そして、「ゲームのタイトル」という文脈の外で、「彼女達こそがシャイニーカラーズなのだ」と、何の矛盾も配慮もなく表明する"場"が、遂に出来たのだ。これを喜ばしく思うことを、どうか許してほしい。


彼女達がアイドルになった瞬間、歩んでいく時間、積み重ねた練習、大きな舞台での敗北、そして「283プロダクションのアイドルが総出演する初めてのライブ」を通して、彼女達は「283プロダクションのシャイニーカラーズ」になったのだ。

この輝かしく見える功績を持って、筆者はこのコンテンツがやりたかったことを想像した。

最初の一年を、憂なく走り切ること。

そして、それが出来る場は、「初期アイドルだけ。最初からの再構成。ライブがしっかり見せられる」このシャニアニこそが適当であると。

愛おしい挑戦だ。愛おしい寄り添いだ。

自分にこの愛おしさを伝えられるほどの物を見せ、そして走り抜いて見せたこのシャニアニを、心から素晴らしいと思う。


そして、このシャニアニの示して見せた功績が、「今後、他のライブコンテンツ・コラボイベントなどの現実」をも、全て「物語の中に取り込むことが出来る」という選択肢を用意してくれた。これもまた素晴らしい。ゲームに限らず、アニメ他の媒体も含めて「シャニマスの世界」を多面的に映し出していく。そんな方針の中で提示されたアニメが、確かに「シャニマスの世界」を詳細にしていくに足るものだったのだ。

そんなものが、「シャニマスの世界」を知った製作陣から、「これをシャニマス最初のアニメにしよう」と提示されたのだ。

こんなに嬉しいことはあるだろうか。


ここまで書いたことは、インタビュー記事を改めて漁ることもせず、一度見たアニメと記憶の中にある内容を引っ張り出して書き上げた、推論というのも憚られる妄言の類に過ぎない。

だが、今この心がこれを記そうと動いたこと。
この心の動きは確かにシャニアニが齎してくれたものであること。

これは誰にも否定できない自分だけの事実だ。
やがて様々なことが明示されていった時、自分が晒す姿は、的外れと嘘に塗れた酷く滑稽なものになるのかもしれないが、自分の考えた軌跡を、ここに残しておきたい。

そんな言い訳にも満たない蛇足と、最後に一言をもって、このnoteを閉じたい。


アイドマスターシャイニーカラーズのアニメを通して、貴方もシャニマスの世界を考えてみませんか?




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