ライフイズ大喜利
課題や責務に追われている際、何か関係のない別のことを衝動的にしたくなってしまうのは人間の本能だそうです。心理学的に言うと「エヴァンゲリオン現象」と呼ばれています。これはレポート提出一週間前になぜか「新世紀エヴァンゲリオン」アニメシリーズ全26話を一気見してしまう大学生の行動からその名を付けられたそうです。嘘です。
逃げちゃだめだ。そろそろエヴァに乗らなければ。人類は皆、エヴァに乗らなければならない瞬間があります。思い出したくない過去、立ちはだかる大きな壁、未来、人間関係、自分、そしてレポート課題。
全然発進したくない。
なんとなく今まで見てこなかったエヴァンゲリオンでしたが、大層な感想を言えそうにないので、とりあえずFly me to the moon~♪じゃねえよとだけ書き残しておきましょう。
向き合いたくないものと向き合うというのは非常に難しいことです。それは一人じゃ成しえないことなのかもしれません。エヴァンゲリオンにおけるシンジ、もしくは庵野秀明は自己完結的な対話を繰り返していましたが、他の誰かとの対話を通じて、その恐怖や不安の在り処を探しだす、やはりこれが一番簡単な方法なのではないでしょうか。フロイトの精神分析もそうでした。患者との深い対話によって、その人の中にある閉ざされた意識を掘り起こす。この方法に様々な批判があるのはもちろんですが、自分を見つめなおす上で他者との対話というのは非常に重要なのではないかと考えます。この日常における一番簡単な心の治療の重要性をテーマに、現代へうまく落とし込んでいるなと思ったのが、NETFLIX限定ドラマシリーズ
《SEX EDUCATION》です。題材が題材なので家のテレビでは見れませんでしたが、最終的には普通に電車の中で毎日見ていました。私の凝り固まった脳をバグらせ、認識世界が全く変わるほど強烈なインパクトを放つこの作品では「対話」がいかに人の心を治療するかをシリーズを通して表象していました。最終回を見終わった後、とにかく人と話したくなりました。人と話すことで、胸の内を明かすことで初めて自分と向き合えるのではないかと思います。
思うに、居酒屋で人々が愚痴をこぼし、誰かに聞いてもらうのも、その愚痴を引き出した対象と向き合う姿勢を持っているからなのではないでしょうか。ただ居酒屋における愚痴(批判)を中心とした対話は、傷の舐めあいに収束しがちなので留意しなければなりません。「そうだよね」「わかる」だけで終わってしまうような返事は、場合によっては救われますが、結局この世に何も生みだしません。親しい関係の人との飲みの場では、ぜひ殴り合いたいものです。理想をいえば、殴り合っても関係は変わらず、互いに成長できる人間を友達と呼びたいものです。またこの殴り合いの姿勢にも留意しなければなりません。どちらか片方が石丸伸二のようなファイティングポーズをしていた場合、殴り合いは一気にクソと化します。思うに殴り合いの理想は『ロッキー4』におけるロッキー対ドラゴです。アメリカのメタファーとしてのロッキー、ソ連のメタファーとしてのドラゴ、二人はほぼノーガードで殴り合い、完全に対立していた両者は最後にはお互いを認め合います。ロッキーに対して強烈な罵声を浴びせていたソ連の観客は次第にロッキーも応援し始めます。ロッキーは勝利後、このようなスピーチをします。
このメッセージは明確に冷戦に向けたものと考えられますが、対話すること、殴り合うこと、そしてそれを観ること、それぞれのあるべき態度も問われているように思います。東浩紀「訂正する力」朝日新書(2023)では現代の対話における問題点が述べられています。
東氏によると「論破する力」と対極にあるのが「訂正する力」です。「訂正する力」とは聞く力であり、持続する力であり、老いる力であり、記憶する力なのだそうです。この「訂正する力」を持つことが他者との対話や、何かを発信するときに一番必要な態度だと説いています。
さて、ここまで取ってつけたような知識と引用で甚だでたらめで強引な文章を展開してきましたが、エヴァンゲリオンやSEX EDUCATION、ロッキー4、都知事選、これらはすべてここ一か月で私が見てきたものです。この四つの事象を関連させて文を展開させたのはおそらく私が初めてでしょう。どれも年代も国籍もバラバラな事象です。交わることのないはずのモノが私の直近一か月の視聴履歴という、たった一つの共通点によってキュレーション(情報の編集、整理)されたのです。
何を見てきたか、何を感じてきたか、それは必ずその人独自のものです。全く同じ人生を歩む人などいません。もし同じ映画を見ていたとしても、そのタイミングやその時の心情、誰と見たか、どこで見たか、何を感じたかは必ず異なります。それ故に、消費したものが同じでもその映画は「私のものである」と言えるでしょう。「自分の人生」という唯一無二の分類によっておきる事象と事象の接続、キュレーションは誰にも想像できません。だからこそめちゃくちゃ面白い。大学の架空の展示会をキュレーションするという演習で、同じ作品を扱っていても、人によってその位置づけや分類の仕方が異なり、その美術作品が持ついろいろな側面が引き出されているという事を体験しました。人のキュレーションは人工知能には到底真似のできないことです。中途半端な知識、狭い知見が面白いキュレーションを生む可能性だって十分にありえます。先述した文章のように、最近の出来事を強引に結びつけさせることもできます。大きい意味で言えばキュレーションとは、人生の選択です。文章を書くことも、何かを創る時も、言葉を発することも、すべては選択の連続です。その選択を面白いものにするには、誰にも想像がつかないキュレーションを起こすためには、自分の人生と向き合うこと、そして一つの世界にとどまらないことが大事だと思います。何の脈略もない、実際はかけ離れている世界が「私」によってナラティブ(物語)になったら、それほど面白いことはありません。これは大喜利とよく似ています。混ざるはずのない対象Aと対象Bが、死角から紐づけられ飛んで来たら、つい笑ってしまうのと同じです。如何わしい陰謀論やこじ付けのような都市伝説に人々が惹かれてしまうのもよくわかります。
人生は大喜利です。誰も想像がつかない、爆発とも呼べるキュレーションを起こすため、そして周りを納得させるため、我々は勉強をするのです。千葉雅也も言ってました。勉強するのはバカをするためです。一世一代の大喜利をするために勉強をするのです。面白い大喜利ができるのは、何も知らない幼稚園児か、幅広い知識を蓄えた人間か、もしくは長い人生を経験してきた老人かのどれかです。幼稚園児にも老人にも当てはまらない狭間にいる私たちができることは勉強しかないのです。書くことはもうありません。とっ散らかりました。
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