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「帝の孤独と愛」『源氏物語』の愛を読む—前世の記憶で繋がるふたりの往復書簡

愛する敬彦さん

先日の青苔の美しい高野山詣では、密教の加持祈祷を間近で拝見し、不動明王と炎が渾然一体となる祈祷のパワーに圧倒されました。
真言呪を唱える僧侶の声の、なんと力強いこと。
あのエネルギーにも屈しない六条御息所の念を考えると、光への恨みも愛も相当に深かったのだと想像してしまいます。

もしも私が敬彦さんに恨みを抱いたら、どうなるでしょう……
うーん、「1人で美味しいタルトタタンを食べてしまわれた」程度のことしか思い浮かびませんでした。(それは結構長く恨むかも)
真面目に考えると……恨まれるようなことをしてしまう哀しさに寄り添い、ともに心を癒す旅に出るでしょうか。

桐壺帝の孤独について、敬彦さんのお手紙を拝読しながら、「誰にも権力をもたらさない更衣レベルを愛しても、誰からも感謝されず、馬鹿にされて蚊帳の外」と、なんとも言えず重たい気分になりました。
記してくださったとおり、所詮は左大臣と右大臣、両家の駒になっているだけの便利な男であるのが天皇です。
両家の腹の底はおそらく、
「あなたは私の娘を孕ませてくれさえすればいい。男の子を」
ですよね。
下品な言い方ですが、夜さえ働いてくれれば、昼間は木偶でも構わない。
そう考えると、臣下からの帝への敬愛は微塵も感じません。

なんという孤独でしょうね。
兄弟の不祥事に巻き込まれて出家した定子を、再び連れ戻して縋っていた寂しい帝、一条帝を思い出します。
しかし、あれは愛だったのでしょうか……
私には寂しい者同士で、ただ寄り添っていただけのようにも見えます。
出家して戻ることがどれほど重いことか、もう少し帝は定子さまのお立場も配慮くださってもいいのに。
愛と孤独ゆえに我が儘になった、桐壺帝が重なります。

この帖で、光君の永遠の女性、藤壺が登場しますね。
亡き母に瓜二つの美しさ、でも母と違い身分が高く、雅な社交会での振る舞いかたも弁えていらっしゃる。
物語では孤独な帝をお慰めするために参内したことになっていますが、歳の近い光の君に、そのような「とても近しいのに、永遠に距離がある人」と接近させる——読み人の胸をざわつかせる仕掛けを、紫式部はなんて巧妙に仕掛けてくるのでしょう!
「手に入りそうで入らない」というファンタジーは「箒木」「空蝉」と続きます。
本命の「藤壺」を狩る練習をするように、少しばかり小物にちょっかいをかける……その辺にいそうなモテ男子っぽい振る舞いで、「ちょっとワルのひかる君」という感じで読んでいます。

そう思うと「桐壺」では心を満たすような愛が描かれていません。
孤独と軽薄。
寒々しく華麗な恋愛の世界。
敬彦さんが、

紫式部は、華麗なる恋愛ストーリーの裏で、宮中の人間が繰り広げるどろどろとした欲望の実態を明に暗に描いていますが、それもまた最初の帖から既に埋め込まれている

と書いてくださいましたが、まさにその通りですね。

前世からの愛の記憶を持つ私は、やすやすと手に入りましたか?
私は、前世の愛の記憶が逆に邪魔をして、どれが現世の私の愛なのか混乱してしまい、敬彦さんの手のなかへ入っていくのは容易ではありませんでした。
心地良さそうなので、やすやすと手のなかに入っていきたかったのですけれど(笑)。
どうぞ、その美しい掌で、愛しんでくださいませ。


あなたを想いピアノ曲を聴きながら、毬紗より

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