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盧溝橋事件は誰が引き起こしたのか? 5分で読める!「中国共産党史観の真っ赤な嘘」講座

内戦で壊滅寸前の中国共産党にとって日中戦争開戦は起死回生の秘策だった!

盧溝橋事件編


日中戦争のはじまりには謎が多い。

私たちが学校などで教えられてきたところによれば、日中戦争は北京郊外において日本軍が中国軍を挑発して引き起こした盧溝橋事件にはじまるとされている。

満州事変がそうであったように日中戦争もまた日本側の謀略によってはじまったというのだ。

しかし、それは本当なのだろうか? 

本当に日本軍は自らそうしたいと決意した上で盧溝橋事件を引き起こし、それを口実に中国への「侵略戦争」をはじめたのであろうか?

その真偽を探るため、ここではまず盧溝橋事件の3年前まで時計の針を巻き戻してみようと思う。

長征

長征軍


壊滅寸前だった中国共産党

1934年10月、蒋介石軍との戦いに敗れた毛沢東の共産党軍は根拠地にしていた中国南部を脱出し、北西部へと逃れた。いわゆる大長征である。

1936年秋、2年にわたる逃避行の末、共産党軍はモンゴル国境に近い延安に到着した。しかし、そこは不毛な黄土台地にある貧しい中国の中でも最も貧しい地域であった。加えるにその兵力は出発時の十分の一まで激減していた。

兵隊はいないし、武器もない。これでどうやって戦えというのだ? いや戦いどころではない。今いる兵隊たちをどうやって食わせていけばよいのだ…。毛沢東は頭を抱えた。

まさにそんなときである。降って湧いたような天佑が転がり込んできたのはーー。

江青

毛沢東と江青

その年の12月、共産党軍と前線で対峙していた元満州軍閥の張学良は突然蒋介石を監禁し、「共産党への協力と一致抗日」を迫った。いわゆる西安事件である。

これを起死回生のチャンスととらえた共産党は、「もし一致抗日に協力してくれるなら、われわれは喜んであなたの配下になりましょう」とすぐさま蒋介石にもちかけた。要は今までのことを水に流し、倒産寸前の自分たちを吸収合併して救ってほしいというなんとも虫のいい要求であった。

しかし、蒋介石はそう甘くはなかった…。

「あいつら以前も仲間になるふりをし、勝手に入り込んできておきながら最後には裏切ったからな。そうは問屋がおろさんぞ」

張学良

張学良と蒋介石

監禁され脅迫された蒋介石だったが、要求に対してはその後も煮え切らない態度をとり続けていた。


盧溝橋における謎の発砲事件

だが、崩壊寸前の共産党にとって国共合作は文字通り最後の命綱であった。ここはなんとしても蒋介石にのんでもらわねば…毛沢東はそう考えた。

そんな矢先、またもや共産党に謎の天佑が訪れた。

翌年の7月7日、北京郊外の盧溝橋で謎の発砲事件が発生、それを機に日中の小ぜり合いが始まったのである。世に言う盧溝橋事件である。

これに対し、共産党は事件発生からわずか数時間後には通電を発し、全国民に向けて一致抗戦を訴えた。奇妙なのは、まるで事件を事前に察知していたかのような異例の段取りの早さだったことだ。

画像4

盧溝橋

あわや全面衝突かと危惧されたが、日本政府は不拡大方針を堅持。直後に結ばれた現地停戦協定によって小ぜり合いはいったん収束に向かった。


なおも続く共産党の蠢動

共産党は落胆した。日中が衝突すれば内戦より抗日を求める声が高まり、それだけ国共合作をもくろむ共産党にとって追い風となるはずだったからだ。

ところが、どういうわけか共産党にまたもや「謎の天佑」が降ってきた。

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