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これぞ実存主義の現在形! 哲学の舞台裏が分かる内田樹・鹿島茂対談

 NHK Eテレの人気番組「100分de名著」のプロデューサー・秋満吉彦さんと、書評サイトALL REVIEWSの主宰である仏文学者・鹿島茂さんが企画した講座が、「100分de名著」特別講座 書評家たちに学ぶ「名著深読み術」と銘打ち、1月25日(金)と3月8日(金)に、南青山のNHK文化センターで開催されました。第1回目は、ゲスト講師に翻訳家の鴻巣友季子さんをお迎えして、英米文学についての対談でしたが、それに引き続く第2回目の今回のゲスト講師は、思想家・武道家の内田樹さんです。講座のタイトルは「フランス文学はこう読め!」です。いわずもがな、お二人とも名うてのフランス関係の大家ですから、否が応にも期待感が高まってきます。司会は、秋満プロデューサーです。

それでは、お二人の対談の模様をお伝えしていきます。
取り上げられた題材は、サルトルの『嘔吐』とカミュの『反抗的人間』です。


サルトルは、オタクで、バーチャル世界の住人だった!

前半では、鹿島さんが『嘔吐』(1938)を取り上げています。

 キャッチフレーズは、「昨日の変人は、今日の凡人!」です。
鹿島さんは、当時猛烈な影響力があったサルトルの『嘔吐』を高校時代に読んでみたところ、何か違和感があって、理解しにくかったと述懐し、その原因を、サルトルの生い立ちから考察していきます。

サルトルの伝記によると、サルトルは、1-2歳の頃父親を亡くし、母親と祖父母夫妻に囲まれて過ごしたのです。その祖父が大学の先生で、家には沢山の書物がありました。サルトルは、母親が読み聞かせた本をほぼ暗唱し、『グラン・ラルース』という百科事典を項目ごとに読んで行くような幼少時代を過ごしたのです。事物には、まず名前があり、その後に随時現物が現れるといった状況でした。例えば、『嘔吐』には、「エビ・カニのような人」を恐怖の対象として登場させていますが、百科事典ではとうの昔に知っているこの名詞も、サルトルが本物をみたのは、もしかしたら1966年の来日の時だったのかもしれません!


この状況は、いってみれば、言葉というバーチャルな世界が、具体的なモノの認知から始まるリアル世界に先行していたということです。当時は、辺りを見回しても、そんな人はおらず、独特な「変人」だったと言えるでしょう。普通は、目の前にあるものから世界が広がっていくのです。


そういったサルトルの幼児期の原風景は、『嘔吐』の中にもみられます。主人公アントワーヌ・ロカンタンは、独学者に出会うのですが、その人は図書館で一生懸命本を読んでいるのです。不思議な読み方をしているのがロカンタンにも分かりました。今書名が、アルファベットのNで始まる本を読んでいるのです。つまり、アルファベット順に読書しているのです。その独学者の読み方はサルトルが子供のころ百科事典をAから読んだ方法とだいたい同じです。やはり変人なのです。
       

サルトルのこのような世界の捉え方と同じようなことが、今の若者を特徴づけていると、鹿島さんは考察しています。今の若い人は、世の中のことを、マンガ・アニメを通して学んでいるといえなくもないでしょう。「アニメ」というバーチャル空間がまず存在し、現実はかなり遅れてやってくる。 来ないことすらある。そこに存在しないものに対して、言葉であらわす。それがバーチャルの特徴なのです。バーチャルは今では当たり前。みんなバーチャルには慣れっこです。しかし、変人サルトルは80年前に、既に現在でいうところのバーチャルな世界を生きた人だったのです。だから「過去の変人は、現在は凡人」ということなのです。
 

変人ではなかった子供の頃の鹿島さんは、バーチャルな世界を生きることはなく、リアル世界で野山を走り回っていたのです。だから『嘔吐』の世界を実感できなくて当たり前なのだということなのです。
そして更にいうなら、フランス小説というものは、『嘔吐』に限らず、全てオタク小説だと結論付けられるのだそうです。



19世紀のフランスでは、金利生活者が、学問・芸術を作っていた?



内田さんが取り上げる『反抗的人間』に移る前に、鹿島さんと内田さんとで、19世紀から第一次世界大戦の勃発に至るまでの世相と大戦間期の不安と危機について触れていきます。

19世紀には金利生活者が少なからずいて、小金を持っていたのです。働かなくても、贅沢を言わなければ、食べるに困らない人々なのです。だけど、結婚すると生活ができなくなるかもしれない。だから独身なのです。バルザックのゴリオ爺さんなんかも金利生活者として描かれています。ブルジョワではなく、庶民なのですが、暇があるので、哲学や芸術を好んでいくのです。そして前衛芸術のスポンサーにもなっていく。このような生活が保証されていたのは、実はデカルト(1596 - 1650年)の時代から第一次世界大戦が勃発する1914年までのフランスでは、貨幣価値が安定していたからなのです。

 鹿島さんは、当時の1フランを、現在の日本円に換算して1000円と計算していますが、これが成立するのは、不変の金銭価値があったからなのです。19世紀文学に出てくるお金の価値も、こんな感じでつかむことが出来るのですね。
ところが、第一次世界大戦が勃発すると貨幣価値は急速に下落していきます。金利生活が成り立たなくなっていったのです。その後の大戦間期は、不安と危機がキーワードとなっていました。不安や危機というタイトルをつけた本が量産された時代でした。そういった時代に次の時代の哲学が準備されていったのです。フランス哲学の巨星たちが自己形成を行っていったのが、まさにこの時代なのです。

中道っていうのが生きにくい時代だった!


 内田さんは、カミュの人となり、その思想を手短に分かりやすく切り分けていきます。
     

まず『反抗的人間』(1951)というタイトルですが、これはフランス語の含意からすると、むしろ「ムカムカする」という感じだとのことです。これを日本人の心性に即して訳してみると、「気持ちが片付かないんだよ、オレ!」といった感じになるのだそうです。 この「気持ちが片付かない」ということをベースにして、哲学体系を作り上げようとした作品が、『反抗的人間』なのだとか。その試みは、ものの見事に失敗します。理念がなくて、感覚とか実感とかで書いているので、無理があるのです。カミュは「程度」の問題を大切にしているので、内田さんはカミュの哲学を「さじ加減の哲学」と呼んでいます。しかし、哲学の世界には、カミュの居場所はなくて、哲学者列伝には入らないのです。カミュは『反抗的人間』で、18世紀以来、人間は、神に代わって世界を造り直そうとしてきているが、人間を有罪とし自らを無罪とする神に対する反抗は、ニヒリズムに陥り、テロや国家による殺人を否定することができなくなった状況を概観しました。マルクス主義思想に基づく共産主義革命への疑義を唱えて思想界に物議を醸しだし、サルトルとの絶縁のきっかけともなった作品です。

カミュは、サルトルとは真逆のアプローチをした人で、サルトルが概念から世界を拡げて行ったのに対して、カミュには、何よりまず世界が存在しているのです。そしてその世界を探求するのに、参照する基準が自分自身の身体なのです。何かがある、頭で考えたら、これが正しい、でも身体が嫌がっているって具合です。肌に泡が立つとか、胸がムカムカするとか、どうしても気に入らないとかです。普通の人なら、例えば革命的正義があった場合、頭で考えてそれが正しければ、身体のざわめきみたいなものは無視したり、抑圧したりするのだけど、カミュはそれが出来ない人だったのです。

 これが正しい!と思って書いても、書いた後に何か違うなぁと思ってしまう性格で、それ故に前言撤回に次ぐ前言撤回が繰り返されるのです。こんな風なので、あっちに行ったりこっちに行ったりしていたのです。

『反抗的人間』が書かれた1951年当時は、我々の想像を絶する状況がありました。それは、スターリンの登場です。ヒトラーの後にスターリンが来た。またパリが、フランス全土が占領されてしまうのではないかという、ジリジリとした恐怖観があったのです。スターリンが来たら、強制収容所に入れられてしまうんじゃないか。いや共産党に入れば逃れられるんじゃないかなんて。そんなに単純ではないけど、共産党に入る人は多かったのです。そしてやがて「マルクス主義にあらざれば、知識人にあらず」というような状況になっていくのです。王党派みたいに完全な右翼もいるのですけれども、どうも旗色が悪いのです。もう圧倒的にマルクス主義の陣営の方が強い状況にあって、その中で、とにかくカミュは孤軍奮闘するわけです。

このような状況は、カミュにとっては、何だかすっきりしないのです。人間が考えている理念とか観念の体系とかイデオロギーとか、そういうものでは結局のところは、世界をくみ尽くせないのではないか。そのくみ尽くせない余剰のところでうごめいているものが、カミュには気になるのです。


そして現代に目を戻してみると

 今世の中は、バーチャル世界で動いています。毎日SNSをフォローし、その他の掲示板にも匿名で自分の意見を振りかざしています。匿名であるがゆえに政治的言動も過激に行われます。例えばヘイトスピーチ。いわゆるネトウヨたちは、韓国中国をこき下ろす。そして外国人排斥に走る。その過激な意見のやりとりに明確な立場表明を取らなければ、その場から除外される。白黒つけない中間的立場にいることが難しくなっているのです。それは、リアルの世界にも投影されています。その昔、圧倒的勢力に立ち向かっていき、困惑・混乱しながらも自らの身体感覚で闘おうとした人がいたことも思い出すべきではないでしょうか。こんな時代には、まさにカミュが読まれるべきなのかもしれません。

    サルトルについては、『乳房とサルトル』鹿島茂、光文社知恵の森文庫
    カミュについては、『ためらいの倫理学』内田樹、角川文庫、2003

2018年6月の「100分de名著」第77巻「ペスト」第4回に内田さんがゲスト出演している。

    神澤透(悠太郎): 仏文出身。放送大学で文学見習い中。尊敬する仏文学者は、鹿島茂、宮下志朗、野崎歓。フローベール・スタンダール・バルザックが好み。小野正嗣、堀江敏幸、小川洋子、多和田葉子を読みます。Twitter @yuutaro925

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