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【ロマンを旅する】ヘミングウェイの通った読書室

7月21日は、ヘミングウェイ生誕120周年である。

そこで、少し彼について思いを馳せてみたいと思う。彼は、1920年代にパリで文学修行をしていた。その時代の彼のことは、色々なところで触れられているが、やはり本人が晩年に書き、1964年に死後出版された『移動祝祭日』が詳しいだろう。是非読んでおきたい本だ。2015年11月13日の同時多発テロで、フランス中が悲嘆に暮れていた時、この本は再び注目され、フランスでベストセラーになった。フランス語版タイトルの“Paris est une fête”は、ツイッターのハッシュタグとして使われ、テロ現場にこの本と花を供えた写真をアップする人が絶えないとの報道に涙したのを覚えている。その時フランス人は、1920年代という第一次大戦直後の苦悩の時代にありながらも、若きヘミングウェイが青春を謳歌している姿に平和を感じたのかもしれない。そんな本を道しるべにパリを歩いてみたい。

【パリの古書店】
パリの古書店は、点在している。土地柄カルティエ・ラタンに多いが、神田神保町のように古書店街がある訳ではない。
古本といえば、セーヌ川沿いに並ぶ屋台のような「ブキニスト」を思い浮かべる方も少なくないであろう。ここは目立つので、多くの観光客が集まって来る。そのせいか、価格は、高めだ。もちろん稀書も発見できない訳ではないが、小規模ゆえ探している本に巡り合う確率は高くない。あるいは、古本市に思いを巡らせる方もいるだろう。ヴァンヴの蚤の市の会場から徒歩10分程度にあるジョルジュ・ブラッサン公園では、毎週末古本市が開催されている。それに、有名な古書店も挙げておきたい。120年以上の歴史をほこるジベール・ジュヌGibert Jeune(5 Place Saint-Michel 75005 Paris)、ブリニエBoulinier(20 Boulevard Saint-Michel 75006 Paris)やシェークスピア・アンド・カンパニーShakespeare and Company(37 Rue de la Bûcherie, 75005 Paris)等である。これらの書店は古書のみではなく新書も扱っている。それぞれ特徴があるのだが、ここでは、ヘミングウェイに関わりの深いシェークスピア・アンド・カンパニーを訪れてみることにしたい。

【シェークスピア・アンド・カンパニー】
ここは、英文学好きの聖地とも言える歴史ある本屋であって、本の販売だけでなく、1万冊を超える蔵書を持つ英語で書かれた本専門の読書室も併設していて活気に溢れている(現在は、閲覧のみ)。『この書店はまた無一文の若い書き手に宿を貸すことで知られており、「タンブル・ウィード」の愛称で呼ばれるこれらの若者は毎日数時間、店の手伝いをすることで食い扶持を得ている。(以上鍵括弧部分はウィキペディアより引用)』

如何にもユニークな書店ではあるが、この店は二代目である。初代シェークスピア・アンド・カンパニー(1919ー41)は、オデオン通り12番地にあり、店主はシルヴィア・ビーチと言った。彼女は、アメリカ合衆国ボルティモア生まれである。父親がパリのアメリカン・チャーチの牧師となり、彼女が10代の頃、一家は3年間パリに居住している。そのためフランス文化に親しみ深く、その後パリに留学している。その時にオデオン通り7番地の「本の友の家 La maison des Amis des Livres」を訪れ、店主のアドリエンヌ・モニエと知り合い、意気投合し、また感化されて、自分も読書室を開く決意をしたのである。読書室(cabinet de lecture )とは、フランス各地に19世紀中頃からある「貸本屋」のことである。その特徴は、店内に読書空間が設けてあり、そこで読むことを基本としていることである。貸し出しは、オプションだった。

シルヴィアの読書室には、後に文豪となる若い作家や作家志望たちが集っていた。アーネスト・ヘミングウェイ、エズラ・パウンド、スコット・フィッツジェラルド、ガートルード・スタイン、ジョージ・アンタイル、マン・レイ、そしてジェイムズ・ジョイス等々数え上げたらきりがない。また、ここは、アメリカ合衆国とイギリスで発禁処分を受けていたジョイスの『ユリシーズ』の最初の出版元となり(1922年)、以降の『ユリシーズ』の続刊は「シェイクスピア・アンド・カンパニー」のインプリントの元に出版されている。
ヘミングウェイ、スコット・フィッツジェラルド、ガートルード・スタインというと、2011年にウッディ・アレンが監督をした映画「ミッドナイト・イン・パリ」を思い出す方もいるだろう。映画脚本家で処女小説の執筆に悪戦苦闘中のギル・ペンダーという人物が、ある夜の12時、酒に酔ったままパリの街をうろついていると、アンティークカーが止まり、そのまま1920年代のパリにタイムスリップするという話だった。何度見たか分からないが、この映画で1920年代のパリはしっかりと記憶に残っている。

それでは、『移動祝祭日』について、話を進めよう。

【若き日のヘミングウェイ】
「もし幸運にも 、若者の頃 、パリで暮らすことができたなら 、その後の人生をどこですごそうとも 、パリはついてくる 。パリは移動祝祭日だからだ 。」と、彼は自著『移動祝祭日』の巻頭で述べている。彼が最も幸福だったのは、1920年代のパリで過ごした文学修行時代なのかもしれない。
ヘミングウェイは、シカゴ郊外で、医者の息子として生まれた。第一次世界大戦に野戦衛生隊として参戦し、イタリアで重傷を負って帰郷した。その後、小説家シャーウッド・アンダーソン(1876ー1941)に奨められて、結婚したての妻ハドリーとパリに移り住んで、作家を目指すことになった。そのアンダーソンが「シェークスピア・アンド・カンパニー」のウィンドーに、自作『ワインズバーグ・オハイオ』が飾られているのを発見し、シルヴィア・ビーチと知り合ったのである。
この読書室のことを、ヘミングウェイは、『移動祝祭日』の中で多々触れているが、一つの章まで設けてもいる。引用させてもらう。

「その頃は本を買う金にも事欠いていた 。本は 、オデオン通り十二番地でシルヴィア ・ビ ーチ の営む書店兼図書室 、シェイクスピア書店の貸し出し文庫から借りていたのである 。冷たい風の吹き渡る通りに面したその店は 、冬には大きなスト ーヴに火がたかれて 、暖かく活気に満ちた場所だった 。店内にはテ ーブルが配され 、書棚が並び 、ウィンドウには新刊の書物が展示されていた 。」

寒い冬、自室が寒かったであろう、若き作家たちが集まってくる姿を活写している。もちろん、今とは違って暑くはなく、爽やかであった夏にも、同じような面子が集まっていたに違いない。

「初めてあの書店に足を踏み入れたとき 、私はとてもおどおどしていた 。貸し出し文庫に入会するための金も 、持ち合わせていなかった 。ところがシルヴィアは 、入会金はいつでもお金があるときに払ってくれればいい 、と言ってくれたうえ 、貸し出しカ ードをその場で作ってくれて 、何冊でも読みたいだけ持ち出してかまわない 、と言ってくれたのである 。
そんなに私を信頼していい理由などはなかった 。私は初対面の男なのだし 、私が明かしたカルディナル ・ルモワ ーヌ通り七十四という自宅の番地は 、極貧の地区を示すものだったのだから 。それなのに彼女は上機嫌で笑顔をふりまき 、私を歓迎してくれたのだ 。そして彼女の背後には 、壁の最上端までぎっしりと 、中庭に面した奥の部屋にまで 、図書室の豊かな知識の宝庫を納めた書棚が並んでいた 。」

ヘミングウェイの窮状を端的に指し示している。若者には、金がないのだ。新妻がいて、話し合い手には困らなかったであろうが、このように修行を見守ってくれる人がいたことは幸いである。彼は8年にわたって世界中の才能溢れる仲間と切磋琢磨しあい、やがて、最初の長編『日はまた昇る』が、ベストセラーとなり、文名が、一気に高まって、1928年に、パリを離れて帰国し、修行時代に終止符を打つことになる。

参考文献:シルヴィア・ビーチ 『シェイクスピア・アンド・カンパニイ書店』 中山末喜訳、河出書房新社、2011年

アドリエンヌ・モニエ『オデオン通り』岩崎力訳、河出書房新社、1975年

アーネスト・ヘミングウェイ『移動祝祭日』高見浩訳、新潮文庫、2009年

宮下志朗、小野正嗣他『世界文学への招待』、放送大学教育出版振興会、2016年 第8章

【この記事を書いた人】神澤 透
仏文出身。放送大学で文学見習い中。尊敬する仏文学者は、鹿島茂、宮下志朗、野崎歓。フローベール・スタンダール・バルザックが好み。小野正嗣、堀江敏幸、小川洋子、多和田葉子を読みます。Twitter @yuutaro925

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