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甘き死を越えて進む。:シン・エヴァ感想

 TV版エヴァの甘く自閉した世界に生きてきたひとが、なぜシン・エヴァを観ると肩の荷が軽くなるのか。そして父と息子の関係について。(観た直後の感情メモ・ネタバレ上等)


“僕だけの物語”ふたたび

 そういうひとは多いと思いますが、「Q」の世界が「破」から14年後だったことは、TV版から経過した現実の歳月を否応なく思い起こさせました。そしてそれは、それだけ経ってるのにまだ自作をリメイクしている監督自身の姿を浮き彫りにする、自傷的な演出に見えたものです。

 ところがシン・エヴァでは、この14年のズレに、心は“コドモ”のまま年を重ねてしまった自分自身の姿が重なった。これがヤバかった。

 大人になったトウジやケンスケが暮らす“第3村”のエピソードで、僕は始終泣いてました。ああ自分はシンジのように、いまだ他人に無関心で、自分の傷を涙で癒すことしか興味のないコドモだ。なのに周りはみんな“オトナ”になって、社会のなかに生きている(ように見える)。

 その後はもう、映画のすべてが「僕の人生」とオーバーラップするんですね。最後まで。すごくいい体験でしたが、純粋なエンタメとしての興奮はほとんどなし。“第3村”どころか、中盤以降はほぼ、はらはら泣きながら観てるんですよね。生き方を思いながら。まるで心療内科のカウンセリングです。

 そしてこの感覚は憶えてます。だってそもそも、エヴァは“僕だけの物語”だったから。

「この熱狂の裏には、自分だけがエヴァのすごさを理解できるという意識がある」

 そんなエヴァ評が記憶に残ってます。僕がエヴァに感じていたカルト的な魅力の本質を言い得てました。20年ほど前、TV版が社会現象になってた頃のこと。自分の感じる社会への苛立ち、親への不信、人間関係への恐怖、それらから逃げ出したい衝動――すべてがエヴァにあった。これは僕だけの物語だと(多くのひとがそう思ったように)確信してました。

 そんなファンの過剰な自己投影を、ただの現実逃避だといって庵野監督は随分嫌ってたし、あえてそこに冷や水をかけるような演出もしていた。そのせいもあってか、TV版以降の旧劇・新劇では、この“僕だけの物語”感は随分薄れました。言い換えれば、それなりに客観的に、エンタメとして楽しんでいた。というより、TV版があまりに特別過ぎたんでしょう。

 だからシン・エヴァの“第3村”で自分の人生を重ねてしまったとき、ある種の懐かしさがあった。そうだ、エヴァとは“我がこと”として人生に取り入れるものだったよな! と。

 ただ、それはかつての感覚とはなにかが決定的に違ってました。

涙では自分しか救えない

 先に書いた、庵野監督の“冷や水”作戦(?)は、これまでは「現実を露悪的に突きつける(旧劇実写パートのように)」とか、「自分自身を露悪的にさらけ出す(Qのように)」みたいなものだったと思います。それを観た僕はたしかに、ああ庵野は「これはお前らの(逃げ込む先としての)物語じゃねえぞ」と言いたいのだな、と思うわけですが、しかしああいう露悪的演出そのものが、まるで教室で発狂して椅子を投げるようなコドモっぽいものに見える。だから、コドモ監督がコドモ観客に向けて創っているという構図は変わらない。そしてそういう作品を、僕のような人間は大好きなわけです。

 それがシン・エヴァでは、そんなコドモ監督の影がすっかりなりをひそめ(巨大綾波のリアル顔にその片鱗は垣間見えましたが)、ただ地に足のついた、だからこそ他者へ余裕ある微笑みを向けられる“オトナ”の世界があるではないですか。

 これでは……日常の苛立ちや不安をはるか遠くへ吹き飛ばしてくれる暴風を期待していた僕のコドモ心はどうなるのか……。TV版では、僕はコドモのままで楽しめた。ただ溜め込んでいた感情をぶちまけ、訪れる“甘き死”に酔いしれ、自己憐憫の涙を流せばよかった(カルト的魅力)。

 なのに。コドモ感情をぶちまけてくれるはずだったシンジくんは、涙では自分しか救えないからもう泣かないなどと言う。あんなにオトナっぽかったカヲルくんよりずっとオトナ。この“オトナ”な世界に、“僕だけの物語”が重なるわけです。まるで、さああなたはどう生きるのと問われるような思いです(心療内科のカウンセリング)。

 そしてそれは、僕にとって、父との関係についての問いでした。

肩を叩くか殺してあげることだけ

 僕の父は、むかしからあまり子供と関わらないタイプでした。それに、僕がエヴァを観る頃には母も亡くなっていたから、僕が自分をシンジに、父をゲンドウに重ねるのは容易でした。そして容易すぎて、その自覚すらありませんでした。

 ところがシン・エヴァを観る前日、つまり昨夜ですが、アニメにあまり興味のない妻にひとことで説明しようとして「エヴァは父と息子の物語なんだよ」という言葉が出た。そのことに少し驚きました。え、そうなの? SFで、オカルトで、中二病で、セカイ系で……。巨大人型兵器で、包帯少女とツンデレで、カヲルくんで……。無数のキーワードからなぜそのひとことを?

 その自分の言葉が劇場でフラッシュバックしました。これは、たしかにエヴァはゲンドウとシンジの物語だった。

 そして旧劇では曖昧なまま終わった父子の確執が、シン・エヴァでは息子が父の呪縛を断ち切るという明確な形で決着していた。「父さん、やめてよ!」って言葉や、褒められて嬉しがったり、期待を裏切られて拗ねたり暴れたりする行動が、まるきりコドモだったあのシンジが。「父さんのこと、知りたい」という決定的なセリフを口にする。コドモでは言えない言葉。

 「子供が父親にしてやれることは、肩を叩くか、殺してあげることだけ」とミサトが言ってましたが、僕自身の話をすると、たぶんいまでも、褒められるために父の肩を叩くことしか考えていないんです。父を「殺してあげる」ことができるだなんて思いもしなかった。

 しかし父殺しは、神話の時代から少年がオトナになるための通過儀礼です。そのためには「父さん、やめてよ!」ではだめで。僕はTV版のシンジの「ちくしょう、よくもトウジを傷つけ、母さんを殺したな!」と叫びながらナイフを突き出す心象描写シーンが大好きでしたが、あれではコドモがコドモを傷つけるだけのことなんですよね。しかも妄想による代償行為に過ぎない。

 僕はゲンドウもシンジも大好きで、それはふたりとも「ずっとコドモのままでいる」という本質が同じだったからです。ところがシン・エヴァではとうとう、シンジだけがオトナになった。これはTV版から旧劇・新劇のこれまでで、ただの一度もなかったこと。シンジが、「知りたい」と口に出せるほど他者に関心を寄せることのできるオトナになった(=父を殺せる存在になった)あの瞬間、ああ、エヴァは完璧に「終劇」したんだと思いました(少年は神話になった)。

僕たちは前に進んでいく

 考えてみれば、母親の身体から生まれた子供にとって、父親とは世界で最初の他者といえるのかも知れない。だから父との関係を変えることが、他者との、そして世界との関係を変えていくのかも知れない。

 僕はずっとこの世界が(時に大好きな瞬間が訪れることは認めるとして)大嫌いなのですが、それはこれまで一度も父のことを知ろうとしてこなかったことと関係があるのかも知れない。

 父との関係に向き合ったシンジは、アスカを、レイを、カヲルを解放し、そうしたTV版の甘く自閉的な(コドモのままでいられる、カルト的魅力のある)世界から外へ飛び出すことができた。そういう意味で、エヴァの世界では最も“他者”といえるマリをシンジが選んだのにはすごく納得がいきました。

 劇場を後にしたときの感情は、とてもひとことでは言えないのですが、なんとなく“肩の荷がおりた”という解放感がありました。シンジもアスカも、いつまでも同じところにいないんだ、勝手に前に進んでいくんだな、という気持ち。

 もしかすると、僕がかつて救われたあの甘く自閉的な世界のなかで変わらずあり続けることは、それなりに重たく、退屈なことなのかも知れません。だけど彼らは、いつまでも“僕だけの物語”のなかに居続けるわけではない。そしてあらゆる関係性は変えることができる。たぶん、僕自身も。

 


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