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【よく見る悩み・推しとの距離感】

好きが故のリスナーの苦悩

自分にはVTuberに、いわゆる「推し」がいる。
ただ「好き」という感情ではなくもう一歩踏み込んだ感情であるのは間違いない。

好きというワードだと自分にとっては少し意味合いが軽く聞こえてしまう。
例えば「海神蒼月はラーメンが好きである」と言った場合、3食もれなくラーメンでないと発狂する、までの感情ではない。ただ、時折ラーメンだと非常に嬉しいくらいの感情だ。
だが「推し」となるともうちょっと精神的に重要なポジにその対象がいて、間違いなく好き以上であり、時には熱狂や依存傾向を示すものだと思っている。

ファン、というワードはどうだろうか。
「自分は○○というアーティストのファンだ」と言った時、その範囲は好き未満ではないということになろう。
ただしその上限はなく、「好き」以上で熱狂・盲信・依存などが含まれるワードで非常に範囲が広い。
ファン同士の温度差というやつは多分この辺りから来るもので、ここを一緒くたに皆が同レベルの感情を持つと思い込むから悲劇が起こるのだろうな、と思う。
人によっては毎日摂取しないと気が済まない依存傾向の人もいれば、それこそ我が人生という人もいる。
当然だが毎日摂取しないまでも、好みであるという人だってもちろんいる。
それだけの温度差を持つ個人集団を一緒くたに「ファン」と呼ぶのだ。
平均化などできる訳がない。

「あんなにわかと一緒にするなよ」という発言の根底は、この「ファン」の定義を見失った者がするものであり、残念だが現実を見失っていると言わざるを得ない。
あなたの熱意は尊い、だがそれが万人尽く適用されるものではない」と言うことだ。
自分にはアンチが付く、とかわかってもらえないと嘆く輩は自分レベル以外の集団要素を全く考慮に入れず、我が感覚こそ万人共通の見解で、これこそが正義であるとそのレベルに到達しない他者を切り捨てるが為に起こることであろう。
自らの方が少数派であるという自覚の喪失か、はたまた自分はエリートであるという歪んだ自尊心に由来するものか。
どちらでも構わないが遠巻きに見るその他の温度を持つ集団からは厄介がられるのは当然だろう。

「置いて行かれる」という感覚

TwitterのTLでしばしば見かける文言がある。
推しの配信をリアタイできないから自分はファン失格だ
と言うものだ。
これがVTuberのファンの特異なところだと思うが、普通音楽的アーティストや芸人さん、俳優さんのファンだとこう言った感覚になるファン人口の割合はかなり少ないものと思われる。

それは何故だろうか。

思うに昨今活躍するVTuberの日常への浸食度が関係しているように思われる。
動画配信サイトを見れば必ずどの時間にも誰かしらが配信活動を行っていて、VTuberただ1人に限ってみても毎日配信はもう当たり前になっていて、
「今日は配信がありません、ごめんなさい」的なツイートもよく見かける。

だが考えてみて欲しい。

例えばあなたが好きなアーティスト、アニメ、なんでもいいがそのコンテンツが毎日自分にアクセスしてくる日々があって、同じ発信者のコンテンツを毎日欠かさず視聴するという人の割合とは如何ほどのものか。
音楽ならばいろんなアーティストの曲を聴いたり、アニメや漫画もいろんな作品を見るだろう。そこに罪悪感は生まれないはずだ。
正直どんなに素晴らしかろうと1人の人間が生み出すコンテンツだ、
少しずつマンネリが来たり、視聴者側の気持ちが乗らない時なんて往々にあるだろう。
どんなに好きでも胃もたれすることだってあるはずだ。
そこに何かしらの罪悪感が生まれることは少ないのではないだろうか?

では何故VTuber(ライバー)のコンテンツに対しては罪悪感を生むのか?

それは近しく接している「人間」とのコミュニケーションで繋がっているから。
・親しい友達を邪険にできない
・自分に良くしてくれる、自分が好きだと思う相手と疎遠になりたくない
そんな感覚が生まれるからだろう。
自分はその感覚に陥った。

言葉は悪いが、VTuberは今や掃いて捨てる程いる。
生まれる命もあれば消える命もある。
アーティストというのは、事務所がサポートしたり、自らの経験によって生まれるに値するレベルまで成長してから世に生まれ出る。
しかし昨今生まれ出ずるVTuberというのはまさに玉石混淆だし、素人が興味本位で安易に始められるものである。
バーチャルの身体を手に入れて配信をすること自体、それは別に良いことだと思うし、そこの垣根が低いことは自分にとっても喜ばしい。
だが、VTuberは職業である。
自分が発信するコンテンツをお金に換える人達だ。
元来YouTuberとは、YouTubeでのコンテンツをお金に換える職業人を指したのだ。だから、VtuberもYouTuberも自らを「売る」のだ。
こうして職業として自らを、そして自ら作るコンテンツを売る職業には少なくない苦労がつきまとう。
端で見る、いかにも楽そうで楽しそうで輝いて見えるその裏で、どれほどの苦労や苦悩があるか、と言うことだ。
ファンを獲得するには、獲得したファンを離さないためにはと言った苦悩を始め、人前に出ればいつだって賛否両論評価が分かれる。
それを相手にしなくてはならないのだ。
中には手放しで褒めてくれる人もいれば、こき下ろし貶す輩も含まれると言うことだ。
職業人はそう言った苦労を全部は見せない。
そこにある苦悩と戦いながらも笑って楽しませてくれる人達を、その苦悩をひっくるめて自分は好きになったのだ。
自分も趣味でバーチャルの身体を使い、バーチャル・リアル両方の動画制作をしているが、それこそ自分がVTuberを標榜しない最大の理由だ。
自分にはそこまでの才能も根性も無い。
だからこそ、活躍する推しVたちが輝いて見えるのだ。

話が脱線した。
そうした輝きを持つ人と、今はSNSを通じて繋がることが出来てしまう。
コンテンツにアクセスする以外の時間も、その人と共にあることが出来る。
共にある時間が積み重なれば情が湧くのが日本人というもの。
そうして24/7/365共にいるという錯覚を抱き始める。
それに背くのは確かに罪悪感だろう。

かくして、自分は推しのVTuber達に共感し、ファンになった。
しかしそうしてファンになった人は自分だけではない。
いろんな立場、いろんな環境下の人達がそこには集う。
例えば、
グッズ全部買ったよ!という人
例えば、
毎回欠かすことなく投げ銭をする人
例えば、
毎回欠かさず生配信をフルで視聴する人
例えば、
いつもアーカイブ見ています、という人
例えば、
今日やっと生放送に参加できました、という人
例えば、
生配信のコメントでいつも冴え渡る、名物リスナー

関わり方は人それぞれだ。
どれが良くてどれが悪いという訳ではない。
だが、のめり込むとさながら神の寵愛を欲する信者のようにその繋がりを密にしたがるもので、それを周囲が羨ましく思い、周囲もその神の気を引こうとする。
何せその神は美しくも魅力的だから。
気がつけば、多少なら自らの限界を超えてでも...と考え始める。
そうなればその「好き」は自らの中で義務になる
だから苦悩する。
あくまでも自分が課した義務感で自らの首を絞めているといえるのではないか、と考える。
すべてを受け止めるなんて、土台無理だ。
ましてや推しが単一ならいいが、自分のように複数いればなおのこと無理だ。
1人でさえ手に余しているのに全員にいい顔し続けるなんて無理が生じて当然だし、無理が続けば歪んで行くに決まっている。

距離感

通常のアーティストや著名人とは、始めからその間に溝がある。
その溝(境界線とでも言った方がいいか?)こそが彼・彼女らを特別たらしめているものだ。
始めから遠い。
だから疎遠になっても罪悪感がない。
しかし、VTuberとの距離は非常に近い。
しかもピンキリをひとくくりに「VTuber」と言ってしまう日本語と日本人の悪癖のせいで玉石入り交じりカオスになっているものを一緒くたにしてしまう。
元来アーティストと同じ扱いを受けるべき人から、ちょっとやってみましたの感覚で安易に始めた者まで一緒くたに扱われるせいでその距離感が一般人近いところから始められてしまう。
これがもっと特別感のあるもの、芸能人と同じ「職業人」としてきちんと線引きがされていれば多分リスナー側の苦悩も幾分軽かったのではないかと思う。
そうだな。
あわよくば、と安易に始めたアマチュア「VTuber」の話は気が向いたら今度別にするとしようか。
自分のことも含めて。

最後に

それにしても、悩めるリスナー達よ。

好きなVTuberとある程度の距離があったとして、その「好き」の気持ちに何か変化があるのかい?
イメージと現実の齟齬に悩むくらいにはその人のことを強く思っているんじゃないのかい?

なら胸を張りなさいよ。
自分はその人が好きだって自信もって良いんじゃないのかい?
繰り返すが、関わり方は人それぞれ
相手を思い、様々な環境に置かれている周りの同士達を思いやり、優しい世界を構築する礎となれるのなら、何を恥じることがあるというのか。

真に恥じるべきはエリートファンを標榜し、自らのエゴだけで推しの作ろうとする世界にひびを入れ、破壊しようとする行為に他ならないのではないか?

人付き合いは信頼関係だ。
自分が推しを信じる限り、推しもまた自分を信じてくれる」と信じることが大事なのではないだろうか。
一方で、自分(リスナー)は大勢の中の1人であり、何一つ特別ではないという自覚も、どこかしらで持つ必要があるのでは無いだろうか。
大丈夫。
あなたの悩みはとても尊い。
その気持ちはきっと届いているから、もう少し肩の力を抜こうじゃないか。
楽しむためのエンターテインメントが重荷に、苦悩になることなんて推しの誰もが望んじゃあいないよ。
自分を許してあげても良いんじゃないかな。


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