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無償の愛&黄金律と無財の七施


無償の愛-仏教の教え

無償の愛

与え尽くす(無償の愛)

人生後半で💞思い遣り💞を学ぶ中で
無償の愛「ギブ&ギブ」という考え方を
学び知りました。
見返りを求めずに与え、更に与える」
と言う見返りを期待せず「与えっぱなし
と言う取組の考え方を初めて知った時、
「これだ!」と、心を動かされました。

その後、
何の見返りも期待しない、求めない
無私の気持ちに心掛けながら人々と
触れ合うように心掛けました。

正直に言って、そのように心掛けること
は生きて来られたことの「恩返し」をする
ことよりも今迄の人生の中で感情を優先
し行動犯してしまった人として為しては
ならないことに対する「罪滅ぼし」の気持ち
と「因果応報」のように感じ受止めています。

この自らの情欲と人間の持つ性しの戦いの
日々の心身の活動は現在もなお続いてます。


人の煩悩の一つ「貪りの欲」に該当する「見返り」
を望み求める気持ちを持たないように意識する
ことは実際頭では判っていても対人関係で中々
実行できることではありません。
考え方によっては人にこの煩悩があるから
面白く楽しみながら生きられるのでしょう。

私達凡人は、
好きな人や愛する人に、好かれ愛されたい
大切にされたいと思い願ってしまいます。

折角他人に親切にしたのに、
相手から何も感謝の言葉や態度を示してくれ
なければ、落胆し、ガッカリしてしまいます。

時には、
信用信頼する人から感謝の言葉や態度が無く、
その人を許せなく御縁が途切れてしまうこと
さえ少なくありません。

また、自分が他人から批判された時などは、
「他の人だってやっているじゃないか」と、
ついつい他人を責めたくもなるものです。

では、どうすれば、見返りを求めずに
他人に優しく接することが出来るのでしょう❓

他人への愛情、善意、情けは、何らかの形で
必ず自分に返って来る、と体験からも思います。

相手から直接感謝を示されなくてもいつの日か
巡り巡って他の誰かが返してくれるものです。

行為そのものが返ってくると言うよりもその態度
や自らの心掛けが幸せを引き寄せ呼び込むのです。

人は、
人に優しく出来るから他人から優しくされる。
優しくされることが、ろ自分にとって何よりも
嬉しく思うから、益々他人に優しくなれる。

上手くこの好循環に乗ればことさらに
「人に優しく」して行こうなどと義務的に
考えなくても「そうせずにはいられない」
と思えるようになれるものと実感しました。

問題は、
どうしてそのキッカケを掴むかと言うことです。

折角他人に親切にしても、感謝されなければ、
やはり損だ、親切が無駄になるのは馬鹿馬鹿
しいなどと考えて尻込みしてしまうのも無理
はないと思います。

しかし、
自分のした親切を「見返りを求め親切にする
のではなく、
過去に受けた親切に恩返しをする」と受止め
て考えればよいのです。

自分が先に親切にした」と意識するから、
見返りを期待してしまうのです。

人は誰でも、
過去に見知らぬ人や他人から親切にされた
ことがあるはずです。
幼児と言われる子供の頃は、
誰も人の手を借りなければ生きられません。

今無事に生きられていられるということは
親族を初めとした数え切れないほど多くの
人々の世話になっている証拠なのです。

今までの生活の中で、自分は相手に何も
親切にしてないのに、全くの無償で親切
にしてくれた人も必ずいる筈です。

自分でも気付かない内に人に迷惑をかけて
しまったこと不本意・不用意に人を傷付け
てしまったこと、それらを黙って受け容れ
何も言わず許してくれた人もいるはずです。

その恩に報いるために、
他人に親切にすると考えれば良いのです。

相手に直接お返しをすることができなければ、
他の誰かでも構わないと思います。

他人に優しくされたから自分も他人に優しくする。
他人に許して貰えたから、自分も他人も当然許す。
その善意が無駄になることはありません。

果たして見返りが得られるだろうかと不安
を感じることもありません。

自分の善意そのものが他人への見返りなの
ですから、それで目的を遂げたと言えると
捉えれば良いのです。

他人に親切にするといっても、何も重苦しく
受止め考えることもありません。
折角の善意も、
度が過ぎれば、要らぬお節介となります。

相手の為に働いたり、物を与えたりする
ことより、最も他人の為になることは、
相手を心から認めて思い遣り尊重する
という心身の活動です。

例えば、心を込めて
挨拶をし、話を聞き、共感することです。
相手の幸せを共に喜び落ち込んでいる時
に見守り、逆境にある時も決して見捨て
ないことです。

このように「相手の存在を認めること」以上の
人としての優しさはありません。

自分の出来る小さな善意を、日々コツコツと
積み重ねていくことです。

ふと 気づいたころには、
「愛し、愛される」という人としての大きな循環が
いつの間にか自然に出来上がっていることでしょう。

人は歳を重ね、
辛さや苦しみの原因は数多くあると思いますが、
その原因の一つは貪る欲といえる他者に対し
見返りを求める心」ではないだろうか?
と思い遣りを学び思い至るようになれました。

愛というのは、
無償の心でするものですが欲や感情が邪魔を
するものであり、私達はあらゆる場で様々な
「愛」を学んでいますがその愛は、自ら見返り
を求めた時点で消えてしまうのかもしれません。
「見返り求め過ぎると愛は消える」と言うことで
誰かに対し「してやった、してあげた」と思った
時点で、人を愛する行為ではないのでは❓

ボランティアでも普通の行為でも、
「してあげた、してやった」と心に思い浮かべた
瞬間に、なんとなくそれが相手に伝わり相手の
心の負担になってしまうものです。

消極的な善と積極的な善の黄金律

黄金律

《消極黄金律》

己の欲せざるところは、人に施す勿れ
※日本は、こちらの考え方が多いようです。

仏教(論語)
「自分にして欲しくない事は、
 人にしてはならない。」

あなたがして欲しくないことは、
他人にもしてはならない。

あなたが自分自身も憎むことは
相手にもしてはならない。

自分が他人からされる腹の立つ事は、
人にもしてはならない。

悪いこともしないが善いこともしない。

人に絶対に害を加えないが、
人の益になることは何もしない。

そこで、何もしないことによって
善良な人間を装ってはならない、
と解します。

《積極黄金律》

与えよ、さらば与えられん
キリスト聖書
自分にして欲しい事を、他の人にする。」

何事も人からして欲しいと思うことは
相手にもその通りになさい、と言うこと。

自分が許されたければ相手を許し、
助けて欲しければ相手を助けること。

自分が褒められたければ相手を褒め、
理解されたければ進んで理解すること。

何もしない消極的な善より、
何かをする積極的な善に生活を
切り変えることを薦めた言葉です。

『無財の七施』

無財の七施

他者と「向き合う」-認める活動
人としての認める活動と仏教の教え
「無財の七施」は関連していると解します。

承認活動とも言える認め合う認知の活動は、
その原点と解します。

1.眼施 (ゲンセ)
触合う相手に、温かな優しい眼差しで接する。

2.和顔施(ワゲンセ)
又は和顔悦色施(ワガンエツジキセ)
明るい笑顔(表情)、優しい微笑を
たたえた笑顔(柔和な顔)で人に接する

3.言辞施(ゴンジセ)
触合う人々へ、心を込めて
思い遣りの優しい言葉をかける。
思い遣りの篭った温かい言葉を
かけながら生きること。

4.身施(シンセ)
人の為、
社会の為に肉体を使い懸命に働く。
ボランティア活動(無料奉仕)。
身体による奉仕をすること。

5.心施(シンセ)
いつも「ありがとう」「お陰様で」
などの感謝の表す言葉と態度、
思い遣りの心を込めた態度と言葉使い
で人々と接し触れ合う。
人や他の物に、感謝の心で触れ合い接する。

6.牀座施 (ショウザセ)
謙虚さに徹し、
場所や席を譲り合ったり、
会話上でお互いに譲り合い遜る心。

7.房舎施(ボウシャセ)
わざわざ訪ねてくる人があれば、
一宿一飯の施しを与え、
労をねぎらいお世話する。
転じて、心温かなおもてなし
今風に言えばホスピタリティの活動。

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