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潔さと勇気!-日本人の心

潔さと勇気の関係

さくらの名言

🎌日本人は、
国花
である桜の花が大好きで、
その散り際の「儚さ」「潔さ」に
心が共鳴し情感を燻られます。

潔い人とは、
「勇気」と※「」を備え持ち、
心に疾しさがなく、自分の本当の姿や
自らの足りる、足りない能力や分度を
弁えない物欲の貧しい心をよく自覚し、
素直に自分の本来の姿や弱みを開示=
曝け出せられる人、或は立場やプライド、
勝負に固執せず謙虚に自己を表現出来る人、
誰にでも平等に接し清らかで崇高な心を
備えた人、を指すのではないかと考えます。

即ち、己の身分や物事の是非を弁え、
建前や自己主張を超越し、
「ごちそうさま」
「もう充分」
「もう結構です」
と言う「分度」の心、
吾唯知足を認識し自分の立場や地位、
名誉に捉われず素直に己を表現でき、
損得や勝ち負けに拘りを持たない
清らかな心を備えた人とも言えます。

潔さは、心に疾しさがなく相手の総てを
心から認めてこそ成り立つことと思われます。

孔子の「義を見てせざるは勇なきなり
との言葉には、
己の潔さをも含めて表していて、
その「勇」は、即ち正しいことを
敢然と実行する勇気と解します。

潔さ

武士道に於いて、
「勇」「義」によって発動される
徳行の中で価値があるものとされた
と言われています。

また、
「義と勇」を一体化させる文と武の一体化、
詰り「文武両道」が不可欠とされました。

新渡戸稲造氏はその著『武士道』で、
"勇気の精神的側面は落ち着きである。
 勇気は心の穏やかな平静さにより表される。

平静さとは、静止の状態に
おける勇気である。とし、
破滅的な事態の最中でも
心の平静さを保っている。
地震にも慌てることなく、
嵐に向かって笑う。

 勇気と名誉は、共にに価値ある人物
のみを平時に友とし、戦時においては、
そのような人物のみを敵とすべきこと
を要求しているのである。
と記しています。

詰り、真に「勇」を備え持った
勇敢な人は常に落ち着いていて、
決して驚き慌てず何ものによっても
心の落ち着きが乱されることがない
という潔さをも表わしていると考えます。

一方で潔く、
「辞退する、退く、責任を取る、辞める、
 諦める、別れる、捨てる」
 などと言われる場合に必要とされる、
 前記した勇気を含む、責任、拾う・
 捨てる、抑える、消去、損得
 見定める、制御、自制、自責、
 見限る、決断、分別、選択、判断。
 と言うような能力や心構えも
 同時に認識しておく必要があります。

※「義」(辞書検索)
我欲(私利私欲)に囚われず、
己の成すべき事を成すことを表わす。

正しい行いをすること。

正しい筋道・義理・筋・道理、条理や義気。
社会を成り立たせ、伝統で精査もされ、
人たらしめる仕来りのことを言う。

【潔い】大辞泉の解説
1.事物・風景などが清らかである。
 汚れがない。
 卑怯な点や未練がましいところ
 がなく立派である。悪びれない
2.思い切りがよい。未練がましくない。
 また、さっぱりとしていて小気味がよい。
3.道に反するところがない。潔白である。
 自分の欲望を素直に認めているのが潔い。

誰でも『他人の過失は見易い』

他人と己

他人の過失は見易いけれども、
自分の過失は見難い。

人は他人の過失をもみ殻のように
吹き散らす。しかし、
この人も自分の過失は隠してしまう。
狡猾(コウカツ)な賭博師が不利な
サイの目を隠してしまうように。

他人の過失を探し求め、
常に他人を見下して思う人は
卑しい性質が増大する。
【以上の出典:仏教「ウダーナルブァルガ」】

人は他人を蔑むことで自らを勝ち誇るのは、
実は己の自我に打ち負かされていることです。

しかし一方で、自ら潔い人が、
勇気を持ち公正を期す目的で
他人の過失を本人にだけ指摘するのは、
むしろ奨励されるべきことです。

その際に、
どんな方法でも良いと言う訳ではなく、
相手を辱めぬよう心(リスペクト)して、
出来るならその相手が自からそれに
気付くようさりげなく仕向ける心配り
(=思い遣り)の配慮こそ肝要だと考えます。

同時に折角、潔く勇気を持って、
好意や善意でしたことが、
怒りや恨みを生じさせてしまい
元の木阿弥になってしまい、
返って相手の自我を増幅させることに
なってしまうこともありますので、
くれぐれも注意することです。

私見ながら、潔さと勇気の源は
相手を思い遣る心であると思います。


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