今日は、2024/03/30(土曜)だ。
昨日、公開初日・初回の映画『オッペンハイマー』を観た。
今日2024/03/30、公開2日目・朝一番の回の映画『オッペンハイマー』を観てきた。
1回目を観ていないのに、2回目の予約をするなんて、クレイジーだ。自分でもそう思う。でも、誰かと一緒に映画を観賞して、語り合うという奇跡を体験したかったんだ。
2回目では、全体の流れが分かっているので、観るポイントを絞ることができた。
特に最後の3分の1のストローズ vs オッペンハイマーの戦いを、スリリングに観ることができた。
ストローズは権力闘争の視点で見ているし、オッペンハイマーは科学者としての平和活動の視点で見ている。
政治家と科学者のコミュニケーションの取れなささをも描いていると感じた。
A面
プロメテウスからオッペンハイマーへ:神話が現実に交わる瞬間
映画の冒頭、プロメテウスの火の神話から始まる。
核分裂という技術を、原子爆弾という装置に仕立て上げた、そのプロジェクトを現場で牽引したのが、オッペンハイマーだ。
オッペンハイマーが、ロスアラモス研究所を呪われたものとして語られる可能性を語ったかのように、オッペンハイマーも、自意識というゼウスに、ずっと呪われ続けたのかもしれない。
それにしても、プロメテウスの火のような神話は、なぜ語られ続けるのだろうか? 進化心理学上の意味はあるのだろうか?
オッペンハイマーは、プロメテウスと異なり、ルールを破ったわけではない。
プロメテウスとオッペンハイマーとの共通点と相違点は何だろうか?
青い世界・地球を覆い尽くす真っ赤な炎。
『風の谷のナウシカ』の「火の七日間戦争」をマクロで見たら、あのような世界になるのだろう。
映画『オッペンハイマー』で、オッペンハイマーがケンブリッジ時代に、深夜の雨の中で想っていたイメージは、なんだったんだろうか?
進化の過程で、猿の時代に、思い描いていた世界なのかもしれない。
表現は、もっと自由でいいんだ。そして、その場その場で撮影すること、アップロードすることも大事だが、じっくり考えて、書いて、描いて、選んで、アップロードしてという流れを作る。
もっと自由にアウトプットしよう。
オッペンハイマーの配偶者は、「キャット」でなく、「キティ」という名前だ。
キャットは、映画『TENET』の登場人物だ。
広島・長崎への原子爆弾投下後のオッペンハイマーによる講演会より後のパートが、1回目を観ると、ほとんど音楽が流れていないようだが、2回目を観ると、テンポの良い音楽が使われていることがよく分かる。
ある一点から未来に話を進めながら、過去の回想を入れていくのは、ノーランならではだ。
B面
斜に構えてみる
音がうるさい。光が強い。
感覚器官に不調をきたす人もいるだろう。
いずれにしても、音楽と視覚効果に頼りすぎだ。
後半の、ストローズ vs オッペンハイマーの戦いは、音楽のノリで押し通そうとしている。
結局、何を言いたかったんだろうか?
オッペンハイマーは、破壊者になってしまった、ということなのか?結局、軍拡競争に加担してしまった、という罪悪感だろうか。
『風立ちぬ』っぽいかもしれない、やはり。
つまり、技術を信奉していて、それが世の中に負のインパクトを与えたとしても、心象風景は青空だし、縦のいくつもの複数の雲は美しくもある。
初見では全容が把握できない
全然、誰が誰だか分からないし、説明が少な過ぎて、話がわからない。
ストローズ
ストローズは南部訛りだ。これは何を表していたのだろうか?
ストローズの過去履歴を知りたい。どういうキャリアだったのか?
なぜ商務省の長官に任命されたのか?
村上春樹のモノマネになっている。パルプフィクションなどのパクリな気がする。そんな風に思った。
でも、二つの時間軸を交互に語る、あるストーリーを主軸に、過去を改装するという物語形式は、昔から存在している。
オッペンハイマーよりも、もっと撮るべき作品が、ノーランにはあったのではないだろうか。
だからこそ、ノーランがなぜ、オッペンハイマーを外形的なテーマとして選んだのかが気になる。
以上