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医と療と

4年前に大きな病で倒れ救命を受けたときから、その地はある意味、そこは聖域のような安心感を持っている。

もちろん、自分の病との付き合いにおいて病院という場所は、できれば訪れずに済ませたい場所であるのが間違いないが、少しその場所を自慢したいような不思議な心持ちなのである。

何だろうか、自分自身ではなく家族の自慢であるような誇らしい気持ちになるのだ。
とりもなおさず、それは自分を救ってくれた主治医や医療スタッフに対する気持ちなのであるが、彼らに向けて、自分が元気でいることが彼らの価値というか自慢の証である。

であるから、体の状態や検査の結果がよかったときは、自分も彼らの勝ちに貢献できているようで嬉しいし、その逆の場合は、極めて情けなくなる。

今の自分のは、主治医や医療スタッフの賜物であり、もっと言えば作品という気持ちでもある。その作品を、自分の行いで汚してはいけないし、守りたいのである。

随分、優等生な患者だと言われるかもしれない。
忖度の感じにしか聞こえないとと思われるかもしれない。

自分でもこの想いは表現できていないことはわかっている。

救命手術後も四度にわたり難手術をくぐり抜け、助けられた。
いや、今も助けられている。

幾度も自分の最後を意識し、人生を俯瞰で見るような体感をしてきた。
達観ではなくて、「死」の意味も自分で受け入れ納得をしているので、いつその場面が来ても後悔をすることはなくなった。

そうであるからこそ、医療との向き合い方が冷めているというか、一歩下がった見方をしてしまうのである。

今、世は経験のない感染病に人類は追い込まれている。
医療の本当の姿がそこにある。

そして、人間にとって、人生にとって、医と療は何に対しても負けるものではない。

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1. 進化する病院アメニティ
2. 応召義務
3. 離島医療
4. ディア・ペイシェント

まとめ:医と療は、尊厳である。

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進化する病院アメニティ

母親が入院していたのは、実家の眼の前に立つ4階建ての胃腸科外科病院だった。
50床ほどのベッドがあっただろうか、外科出身の院長の邸宅が横にあり、同じ町内会のご近所さんであった金持ちのおじさんが、手術着を来ていきなり母親の執刀医になった。

胃がんと告げられても、それによって自分が何もできないことに佇む息子をよそに、父親はできることの全てを尽くした。

思えば、自宅の前に都合よく専門病院があることは幸運ではあったが、当時の医療技術では、進行したがんの前にはなす術はなかった。

蛍光灯とりのリノリウムの床と消毒液のきつい匂いの中で、母はやせ細り生き絶えた。
母を奪ったその染み付いた空気が病院のイメージだった。

父が食道がんの手術を受けた県立病院は、規模は大きかったが古い建物は、どこか威厳を醸し出した居心地の悪さを感じた。

「白い巨塔」のイメージよろしく、医師の権威を思い知らされるような佇まいだった。

病院は医療の場、医療を行うに適した、医療を行うことを軸にした被医療者にとっては半ば我慢をしいらされる環境でもあった。

近代建築が医療の場にも用いられるようになって、病院の様も変わった。

綺麗な調度品や快適な待合室、患者ファーストの環境は、病院関係者には「病院のデパート化」と揶揄される。つまりは、お迎えするのはお客様という考えだ。

それは、通院であろうと入院であろうとアメニティ重視であることは変わらない。

医者と患者の立場のバランスが今の病院の問題の一つになっているのではないだろうか。

つまりは、患者か側が病院をサービス業と勘違いするきっかけを作ってしまっている。


応召義務

医師法第19条第1項「応召義務」
診療に従事する医師は、診察治療の求めがあった場合には、正当な事由がなければ、これを拒んではならない。

世の中の契約のほとんどが、双方の合意の元で成り立っているのに対し、医師法はこれを義務付け矯正している。もちろん、バスや鉄道、電力、ガス、水道等のライフライン等、同様の義務を持つサービス業はある。

しかしながら、それらはサービス業である。
医療がサービス業と錯誤してはいけない。

昔の病院でも、いや昔の病院であるからこそ、診察の待ち時間に辟易とし「何時間待たせるんだ」と怒鳴る患者の姿は多かった。そんな我慢を少しでも和らげる目的で病院アメニティは進化したのであろう。

ただでさえ高度医療の中で、克服される病気が多くなったことに比例して医療裁判も増えている。皮肉にも医療は進化を遂げることで、医師の立場を不利にしている。

「医療過誤」「診療ミス」として提起される医療訴訟では、治療費、入院費、介護費、休業損害、逸失利益逸失利益、慰謝料、葬儀費用などが損害賠償額に盛り込まれると言われている。

医師は、こういったリスクに対して「医師賠償責任保険」というものに加入する。自らを守るための自己保全である。t,まあ病院によっては、病院自体が保険に入っているケースもある。

医師の医療正当性が認められることは多いが、訴訟による無理英気な浪費がそこには存在する。


離島医療


「Dr.コトー診療所」山田貴敏著

大学病院で活躍していた若き才能のある医師、五島健介が、診療事件に巻き込まれ離島に赴任することになるが、そこは、思いがけず彼を成長させる環境であった。

この物語に限らず医療物語には主人公に対峙する悪徳医者や卑怯な手口で問題を起こすシーンが描かれるが、患者との間で医療のあり方を考え、悪意者に対して患者側から医療を問いてくことで、正しい医療を示していく。

Dr.コトーは、悠然とした自然とそこに住む住人の医療に対する意識を題材に、離島医療の問題に立ち向かう。

現在、問題視されている感染症に対する離島医療のあり方もその一つだ。

医療設備、医療従事者数が限られている離島にあって指数関数的に患者が増えることは、脅威であり、手立てが限られる。

医療提供数が限られている環境の中で、一番必要なのは医者と患者の信頼関係だ。
兎角、患者を見る順番であったり、内容はこの信頼関係がなければ成り立たない。感染症のようなトリアージュなしには医療を進めていけない環境では尚更だ。

患者の目線で医療を見直す。
医療の正しいあり方を患者側が理解する。

全ては信頼のもとに出来上がる。


ディア・ペイシェント

出版業界出身ながら、出産を機に33歳で東海大学医学部に学士編入したという異色作家であり南杏子さんの意欲作。

医療ドラマとしては珍しく、モンスターペイシェント徒渉するクレイマー患者との関わりややり取りの中で主人公の成長を描く物語。

登場するモンスターペイシェントは、半ばストーカーのように主人公の女医につきまとい問題を引き起こす。

現代が生み出した対峙する関係での自己主張と過度の承認欲求からくるモンスター化は、
モンスターペアレンツやモンスターシチズンと同じく、浅ましい人間の姿をターゲットに向かって浴びせる。

患者・家族からの暴言や暴力、過度のクレームや要求を受けた経験がある、と答えた医師は、55%を超えるそうだ。

患者は、病院の全てをサービスと捉えるようになってはいけない。

病院は、病人を癒す場所なのであり、その癒しは医者と患者の双方が相手を思いやることでできる環境なのである。

それが出来上がるからこそ、人間はどんな状態で死を迎えようとも、全て寿命だと受け止められるようになる。

医療とは、治すためだけではなく、幸せになるためのものでなくてはならない。たとえ病気があっても、その病と共存して、最後まで心地よく生きられるようにすることが医療であり、たとえ、その先に死があろうともそれを受け入れるべきだと思う。

まとめ:医と療は、尊厳でできている。医者は、病気を治すのは患者本人であり、医術はその助けをするにすぎないと考え、患者は、医者との信頼の中で、自分の最良の未来を信じる。命に関わる職業であるから、そこには死が付きものであるが、その死さへも、医療と合わせての尊厳の対象であるべきだと思わずにいられない。

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