新自由主義革命を支える日本のリベラルエリート

これ(⇩)は、西洋から数年遅れで同じ現象が顕在化してきたことを示している。

記事で取り上げられている大学教員の発言は、前回の米大統領選挙でのヒラリー・クリントンの「トランプ支持者の半分は"deplorables"だ」と同じ意味である。

"To just be grossly generalistic, you can put half of Trump supporters into what I call the basket of deplorables," Clinton said. "Right? Racist, sexist, homophobic, xenophobic, Islamophobic, you name it."

西洋では、必ずしも優秀ではない集団エリートのAnywheresが、残りの「遅れた差別的な連中」のSomewheresを侮蔑する構造が定着している。

今のエリートは「集団エリート」と呼ぶべきものになっています。高等教育を受けた全人口の30%から40%の人々、必ずしも優秀ではない人々が自分たちのことをエリートだと思っているのが現状です。ある種の文化的な集団とも言えます。似た者同士の集まりで、皆が同じような思考を持っています。フランス、イギリス、アメリカなどの国々では、エリートに対して遅れている大衆がいる、といった構図ができ上がっています。エリートが開かれた世界を代表しているのに対して、そうではない人々は閉鎖的な世界にいる、というような構図です。
問題は右派、左派というよりも、彼らが教育的な観点からも「上層部」にいるという点なのです。
今日、知識人階級において非常に感じる変化は、彼らがどんどん内向的になってしまっているということです。社会の上層部は、どちらかというと世界に開かれたメンタリティを持つ人々の集団であると認識されていますが、現在は全くそうではなく、これまでにないほど閉じてしまっています。集団レベルでは完全に愚かになってしまったのです。

エリートがdeplorablesに対して攻撃的になってきたのは、愚民たちをリベラル的価値観で「鳴かせてみよう」としたものの、いつまでたっても鳴かない(教化されない)ので我慢の限界に達し、「殺してしまえ」の段階に至ったためである。

理想主義が「殺せ」を正当化するようになるのが左派/リベラルの特徴で、近代でもフランス革命以降、多くの人命を奪っている。

少なくともプラトンの『国家』以来、完全無欠な社会を築くという概念は西洋人の意識のなかにあり続けている。左派は存在する限りずっと誰もが仲良くて、協力しあい、自由で平和に生きていける社会を追求してきたのだ。
二〇世紀に入り、人間は完全であるという夢は、スターリンのソ連、文化大革命下の中国、ポル・ポト政権下のカンボジアで大変な悪夢と化した。そしてこの悪夢から目覚めた左派は大混乱に陥ったのである。

軽蔑と憎悪の対象とされる「無知な大衆」が反発するのは当然で、それがトランプ当選やBrexitにつながったのだが、それによって集団エリートがますますecho chamberに閉じこもって過激化する悪循環が生じている。社会に憎悪をばら撒いているのはリベラルエリートなのだが、彼らは"racist, sexist, homophobic, xenophobic, Islamophobic"たちの不正義と憎悪に立ち向かっているつもりなので始末に負えない。現代の西洋リベラルは1970年代の新左翼が進化したものなので、攻撃性を受け継いでいる。

日本のリベラルエリートは西洋の同類にインスパイアされて言動を活発化させただけなので、日本には歴史的に存在しない(か西洋に比べると著しく軽微な)黒人差別や性的マイノリティ差別を直輸入して日本人に贖罪を迫ったり、西洋のリベラルには絶賛されている安倍前首相を「軍国主義者→保守反動の極右」と誤認して攻撃するなどの致命的ミスを犯しており、それが一般大衆から浮いてしまう原因になっている。むしろ、「敵の敵は味方」ということで安倍政権支持者を増やすオウンゴールになってしまったとも言える。

これまでにも度々あった「外国かぶれが変なことを言う→一般大衆が呆れたり反発したりする」が繰り返されているわけだが、日本のリベラルは西洋の本家の力を借りる「外患誘致」を企んでいるので、甘く見てはならない。

付録

プレジデントの記事のこの指摘を証明するのが、サッチャーの有名な「社会などというものは存在しない」である。

ネオリベが家族や親族を肯定的に評価するのは、経済競争によって生じる失業者や傷病者などいわゆる「市場の失敗」を家庭に押し付け、これを社会の表舞台から不可視化する役割を担わせることができるからだ。「市場の失敗」について、政府の責任領域を極力小さくするために合理的であるからこそ、家族や親族の役割を肯定的に強調しているにすぎない。

公助の前に自助と共助を強調していたことに注目。

"They are casting their problems at society. And, you know, there's no such thing as society. There are individual men and women and there are families. And no government can do anything except through people, and people must look after themselves first. It is our duty to look after ourselves and then, also, to look after our neighbours." – in an interview in Women's Own in 1987

安倍前首相はサッチャーのTINA(There is no alternative)が気に入っていたようだが、菅首相もサッチャーの影響が強そうに見える。中曽根政権以来の新自由主義革命は依然として継続中である。

西洋ではネオリベラルもリベラルも「広義のリベラル」に含まれる同類であることにも注意。共通するのは「仲間以外は皆風景」(宮台真司)の精神である。

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