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科学者にとっての論文

私は、細胞生物学者で大学医学部にラボを持ち、基礎研究と教育に携わっている。
ここ数日の間に、Nature CommunicationsとNature Cell Biologyという2つの学術誌から論文受理の知らせが相次いで届いた。若い頃なら、やったーと声に出して小躍りしたに違いない。

学術誌からの審査結果を知らせるメール(昔は紙で届いたが)を読み始めI am pleased to tell youと言う決まり文句を見つけたときの嬉しさは、研究者なら皆知っている。良い知らせだとすぐ判るのだ(一方、それがI regretだと地獄に落ちた気分になる)。このような吉報は何回貰っても嬉しいものだ。

研究者以外の人にはピンと来ないと思うが、現代の(少なくとも自然科学)研究の世界では、論文というものが極めて重要である。例えば、いくらたくさんテレビに出ても本を出してもそれは研究者としての直接の評価にはならない。

研究者は何か大事な発見をすればいいのであって、発表手段などは二の次だろうと一般の人は考えがちだが、事はそう簡単ではない。その発見が本当に大事なものなのか、真実に近いものなのかは自明というわけにはいかず、誰かがジャッジしなければいけない。神さまが判断してくれれば一番良いが、そうもいかないので、その分野の別の研究者が審査することになる。

すなわち、発見を論文にし学術誌に投稿、投稿された論文をその学術誌のエディタが指名した数名の分野の近い別の研究者が審査(ピアレビュー、査読という。だいたい匿名で行う)して可否を判断するのだ。このシステムには色々問題もある。例えば数名の判断じゃ不正確など。だが、これ以上に良いやり方がまだ考え出されていないので、今のところ唯一の方法となっている。

そして論文が出てしまえば終わりかというとむしろ始まりで、長きに亘る論争の出発点となる。他の人が同じ実験をしてみて確認したり(追試)、反論の論文を出したり喧々諤々があって、皆の力で徐々に真実に近づいていく。

はっきりいって、めんどくさい世界である。でも神ならぬ人間はある仮説が真実かどうかを最終的に判断することが論理学的に不可能なので、限り無く真実に近づく営みを延々と続けるしかないのだ。

科学とはそういうものだ。「ST◉P細胞はあります!」と涙ながらに叫ぶだけでは残念ながらだめなのだ。今回のパンデミックでは専門家と称する人が色々出てきて、あっさりと何かを断言する場面をしばしば見かけたが、簡単に断言する人ほど研究者としては信頼できない。

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