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色覚と生物多様性

〜“「色のふしぎ」と不思議な社会”を読んで〜

先天色覚異常をご存じだろうか。日本人男性なら20人に1人いるので、結構多い。私もそのひとりだ。自分は「正常」だから関係ないやと思った人も、実はこの問題が、人間の精神や身体の異常・正常や遺伝子の優劣とは何なのか、さらにはヒトを含む生物がいかに多様かということを改めて考えるきっかけを与えてくれる、と聞けば興味を持たないだろうか。

「色のふしぎ」と不思議な社会(川端裕人著 筑摩書房)というノンフィクションが、この先天色覚異常の問題に我々を誘ってくれる。

だが、まずは個人的な話をしよう。私は赤緑色弱と呼ばれるタイプの先天色覚異常だ。私が小学生の頃は、毎年身体検査のときに色覚検査があり、嫌で嫌でしょうがなかった。今でもあの色の粒が並んだ円形の図の石原式検査表を思い出すと、心がざわざわする。

異常と診断された私は、担任の先生に図工の時間に描いた絵を毎回持ってくるように言われた。間違った色を使っていないかチェックするためだ。しかし、実生活で他人との違いを認識することは、今に至るもない。大部分の色覚異常は、個人的にも社会的にもほとんど問題は無い。

ところが理学部や医学部へは進学できないと言われた。過去には、確固とした根拠も無しに進学や就職の差別が行われていた。私が受験するときにはそのような差別はもう廃止されていたとはいえ、「異常」の烙印は大きなショックと不安を子供の私に与えた。

結局私は理学部に入学し、大学院は医学部、今も医学部で研究している。他人より研究実績が劣っているとは思わない。あの宣告は何だったのかと思うが、現実に科学的根拠のない差別を受けた人達がたくさんいたことを本書で知った。

一方この色覚検査のお陰で、私の科学者としての原点とも言えるある考え・思想が私の中で芽生えた。石原式色覚検査では色の粒の中から数字を読み取る。私は、他の子が読める数字が読めなかった。ああ、自分は異常で欠陥があるのだ、と思った。ところが、ひとつだけ赤緑色弱者にしか読めない数字があった。

それも「異常」を検出するためのものだったが、私は子供心に、他の子が読めないものが読めるならそれは能力じゃないかと思った。劣っているのでは無くて、違う能力なんじゃないかと。

それから色々なことを考えた。

何が正常で何が異常か、あるいは何が劣っていて何が優れているか、は相対的なもので絶対的なものではないのではないか。このようにものごとを相対的に見る考え方は後に科学者としての核になっていく。

また、知覚の不思議さに思いを馳せた。どんな人も皆、それぞれ違う色が見えているのではないか? 生まれつきなら、この色は赤と教わるから話をしていても違いは判らない。正常色覚と言われていても、実は皆違うんじゃ無いかと。そしてその想像が本当だったことが、今回本を読んで判明する。

そしてヒト、あるいは生物は多様なんだと思うようになった。色の見え方ひとつとってもこのような違いがあるのだから。私は、自分の中で色覚異常を色覚多様性と捉えるようになっていたのだ。この多様性は、私が生物学に興味を持った理由のひとつであり、生命科学者としての根っこにもなっている。そして多様性は、私のみならず現代生命科学の基盤となっている。

自分の話が長くなった。本書を読み、子供の頃からのこの自分の考えが間違っていなかったことを発見し、感動したことを書こうとしていたのだった。

本書は、色覚の問題について、社会問題としての観点から生物学、特に進化生物学の最新成果まで多角的、総合的に論じた力作だ。ここまでよく調べたなと感心するし、実際かなりの年月と労力が費やされている。

やはり、私同様著者が色覚異常と診断されたことが原動力のひとつにはなっているのだろう。それにしても、私が知らなかったことが続々とでてきて、良い面でも悪い面でも衝撃だった。悪い面を先に言えば、日本の社会における差別の歴史がここまでとは知らなかった。

一時は根拠のない進学就職差別や結婚差別が横行していた。私は運がよかっただけだ。一番ショックだったのは、最近話題になっている優生保護法による強制不妊手術の対象に全色盲もあげられていたことだ。優生保護法は、そもそも生命科学に反する悪法であるにもかかわらず、なんと、ついこないだの1996年まで存在した。

実際に色盲者に対して強制不妊手術が行われたかは不明だ。しかし教科書にも色覚異常者とは不用意に結婚、出産をすべきでないと書かれ、保健の先生が色覚異常者とは結婚するなと指導していた時代が確実にあった。

「不思議な社会」では済まされぬ気が滅入る話だが、一方で、生命科学者は色覚について驚くほど解明を進めていた。本書では、次々と新しい成果が得られている色覚科学の最先端が詳しく紹介されている。

以前から知られていることとして、生物によって色の世界はそれぞれ大きく異なっているということがある。一緒に暮らす犬やネコでも、見えているものが違うのだ。サルになるとさすがにヒトに近く、一般のヒトと同じ見え方をしているサルもいれば、色弱者と同じタイプのサルもいる。

そして最新の研究によれば、一般のヒトタイプのサルは緑の葉っぱの中で赤い果実を見つけるが得意で、一方色弱タイプは昆虫を見つけやすいそうである。詳しい説明は避けるが、前者の能力は後者の能力を犠牲にすることで成り立っている。つまりそれぞれ得意不得意があり、どっちが優れていると言うことでは無さそうなのだ。

もちろん、我々はジャングルで果実や虫を探す必要は無い。ただ面白いことに色弱の遺伝型は、ヒトに進化したあとに派生的に出現している。つまり次の進化なのかもしれない。それにどういうメリットがあるのかは不明だが。

そしてさらに、正常とされる人の間にも色の見え方は様々で違いがあること、そして正常と異常の境界ははっきりせず連続的であることも判ってきた。ちょうど発達障害が連続的でスペクトラムと呼ばれるように。私が子供の頃想像したことが、科学的に立証されたのだ。

現代の色覚研究が指し示しているのは、いわゆる色覚異常は異常ではなく多様性であるということだ。日本遺伝学会は2017年に、色覚異常と呼ばす色覚多様性と呼ぶように呼びかけたそうだ。血液型のAB型を、血液型異常と呼ばないのと同じだと。

しかしそうは言っても、色弱を知らずに就職したために問題が起きたらその人にとっても社会にとっても不幸だと思う人もいるかもしれない。そして、そのような理由から、今は行われていない色覚検査を復活させようという動きが実際にあるようだ。

だが、問題が生じるようなケースは例えば空軍パイロットのように極端に限られており、それを避けるために全員に検査を行う弊害のほうが大きいし、そもそもそのような目的のためには現在の色覚検査は機能しないと著者は考える。それに、以前あった科学的ではない就職差別が撤廃されても大きな社会問題は起こっていない。

私も全く同意する。我々がすべきことは全員検査では無く、偏見を無くすこと、そして色覚バリアフリーの推進であろう。たとえば、赤を朱色にするだけで色弱者にも見やすくなるなど、少しのことで問題を軽減できるのだ。

知人の某医科大教授が熱心に活動しているNPOのCUDO(カラーユニバーサルデザイン機構)が色覚バリアフリーを広めようと努力しており、産業界や政府機関にも受け入れられつつある。今までこういう色でやってきたのだから、色弱者がそれで何かミスしたら自己責任だ、と考える社会よりずっと健全ではないだろうか。

現代生命科学は、色の見え方が違うだけで劣っているとみなして遺伝子を根絶しようとする発想こそが根絶されるべきであることを明確に示している。色覚の問題は、広く生物の多様性について考える上での格好の「練習問題」である。生物の多様性は、我々人間の多様性だ。

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