情念の一義性―フーリエ情念論とスピノザ並行論の偶然的結合、あるいは愛の新世界を生きるためのエチカについて
§1 フーリエの自然主義
本稿は、17世紀オランダの哲学者バルーフ・デ・スピノザ(1632-77)を補助線に用いることで、19世紀フランスの社会思想家フランソワ・マリー・シャルル・フーリエ(1772-1837)の情念論を実践哲学として再構成する試みです。なぜ、スピノザとフーリエか。端的に述べれば、両者の思想的核心を表す『エチカ』と『愛の新世界』は、21世紀の主体における諸情念の自明性を変形する力能を秘めているためです。
技術的な困難と極度の恣意性が疑われるかと思います。かたやアカデミアの哲学研究において大いに評価される孤高の思索者、かたやブルトン以来の「幻視者」あるいは「パレ・ロワイヤルの狂人」という同時代的イメージも拭えぬ、主にはフランス文学研究者による部分的な紹介に留まった「超絶奇人」。実際、歴史上の接点も極めて少ない取り合わせです。そもそも19世紀前半にスピノザが翻訳された例は少なく、フランスでは1843年の著作集の刊行を待つ必要があるため、それ以前の世代であるフーリエやサン=シモンといった初期社会主義者において、スピノザはほぼ読まれていません*1。
かろうじて両者を結ぶ線に、フーリエの死後、フーリエ派との交友からスピノザを知った無名の社会主義者、ジュール・プラトの存在があります*2。しかし筆者の不勉強ゆえ、フーリエ派やプラトにおけるスピノザ受容の追跡は手に余ります。これを消極的な理由として本稿は、その気になればスピノザとフーリエを同時に受容できてしまう我々の読みの地平に定位します。
下準備に掛かります。フーリエをご存じでない向きは、手前味噌ながら上の動画でもご笑覧ください。情念論と性愛論に焦点を絞った、フーリエ思想の最低限の要約です。フーリエの文章がもたらす多幸感と、ひとまず「21世紀初頭的」と呼ぶしかない人間の多幸感を重ね合わせたものでもあります。
以下、本稿の論旨を補う動画の箇所を《》内のタイムスタンプに示します。必要に応じてご参照ください。
紹介動画の少なさを見るに、スピノザよりもフーリエのほうが読まれない時勢と思われます。あたかも、現在の我々にとってフーリエ的ユートピアがあまりに自明すぎるせいで、かえってフーリエと出会い損ねているかのようです。そういう私も、フーリエとの出会いは至って凡庸でした。五年前に「奇書」との世評を聞いて取り寄せ、パラノイアックな情念の分類学はもちろん、膨大な造語群とその訳語の滑稽味を楽しみ、素朴な喜びの感情に触発された記憶があります。ただ、その喜びは、戦慄に近い過剰な笑いを伴っていました。
それは当時、キャラクター文化の激変という人生の一局面に際し、自己と他者の人間身体が求める「愛」を、それとして肯定できなくなっていたニヒリズムの人間精神が、強度的かつ部分的に解体される体験でした。いま振り返るとその笑いは、第二の自然*3に内在し直すことの必然性の予感そのものだった、と言えます。
とはいえ、こうした私の主観性に基づいて、フーリエからスピノザを理解するのは憚られます。表面的に言えば両者の相違は、フーリエが一般アナロジーの法則で万物を語る一方《10:47》、スピノザはアナロジーの思考一般(類似性、多義性、優越性、矛盾、等々)を批判することに顕著です*4。もちろん両者の体系における類比の意味合いは異なりますが、一般読者にすぎない身からは、フーリエ研究者ルネ・シェレールのような軽やかさで両者を結ぶ真似は慎みたいのです*5。
しかし、フーリエによれば「両極端は相通ずる」《15:07》。フーリエは媒介不可能と見える諸事物の対立を和解させたくて仕方がない*6。迂闊な同一視を禁欲した上で結論を先取りすれば、両者は神-数学(幾何学)-自然の三つ組に単純化しうる世界観のもと、道徳を痛烈に批判しながら、価値論的ヒエラルキーを破壊し、差異の絶対的肯定を成し遂げる限りで共通します。すなわち両者は「ニヒリズムの人間精神を解体して、人類そのものがまさに特異な〈地球-球体〉という所産的自然に内在し直すための諸観念から人間精神を再構成しようとする」*7ような、あえて言った自然主義が通底すると思われるのです。実際、國分功一郎氏は『愛の新世界』邦訳の刊行に際し、早くからフーリエに自然主義の呼称を与えています*8。
ところが國分氏は、フーリエの「通俗的解説」という短文の書評に課された限界を強調した上で、ついでのように現代のポルノ産業を「紋切り型」の性的幻想を「データベース化」した貧しい欲望の典型例として粗雑に否定するという、いささかフーリエ的ではない身振りに陥っています*9。
些末な指摘に立ち止まったのは、私がポルノ中毒のフーリエ読者であるためです。フーリエの哲学者嫌いにあやかって言えば、哲学屋の技術上の区分(通俗知/専門知)に依拠した「通俗的」な國分氏の書きぶり自体が、フーリエの特異性を取り逃してしまっています。というのも、全ての世人が持つ情念と嗜癖を無限小に至るまで分類する世俗的認識が、そのまま「超越的計算」だと豪語するフーリエは《9:47》、そもそも世俗/超俗という(技術的どころか)価値論的な区別から自由であるためです。言い換えると、フーリエの思考は古代ギリシャ語以来の対項である〈カタ・ロゴス〉(言語の下向的使用、カタログの語源)と〈アナ・ロゴス〉(言語の上向的使用、アナロジーの語源)が一致している。明らかにフーリエは、道徳的な人間精神が「通俗」のカテゴリーに貶める全ての情念を微細に知覚することを要求しています。
全ての情念を、全ての差異における〈同じもの〉としての情念を断固として肯定する〈情念の一義性〉のもとに、神あるいは自然を人間と等しくし、地球において、かつ地球として射精する存在として統一的に人間を理解することが、本稿の想定する〈フーリエの自然主義〉です。
§2 情念論における〈愛〉の再定義
唐突な並置に対する読者の懐疑を晴らすべく、スピノザの「通俗的」な側面を確認します。
この一節には、エピクロス主義にも近しい快楽の明朗な肯定があります。人間身体の現働的本質(コナトゥス)が多様かつ新奇な諸物と結合して成長していくこの構図は、スピノザ研究者の木島泰三氏いわく、「個物における必然性と偶然性の創造的結合」です*10。
ここに「だれにも迷惑をかけずに多くの人々に快楽をもたらすことがつねに善」なので、「快楽を限りなく多様化」*11すべきと語るフーリエを並べてみます。すると、フーリエについては國分氏がバルトに依拠して指摘した通り*12、両者の歴史的な共通基盤にはエピクロスの快楽主義が想定できます。それを土台にスピノザの倫理的肯定からフーリエの社会的要求への発展図式を描くことすら可能でしょう。フーリエは過度なフリーセックスの唱導者ではなく、多婚愛に節度と秩序を担わせているためです。
両者は心身が求める適度な快の効用を認め、そこに神の配剤すら透視する現世的幸福主義者である、等々。このアナロジーは非十全ですが、スピノザとフーリエの繋がりを予見した以下の先行研究も無理筋でないことだけは、分かるかと思います。
スピノザは身体と精神を別々に考えることを拒絶し、フーリエは唯物愛と心情愛を別々に考えることを拒絶します《14:25》。両者は伝統的な霊肉二元論の軛を離れ、心身の特異な結合を思考している。この「創造的結合」を知覚するべく、以下は1980~90年代にかけて政治哲学の観点からフーリエを論じた市田良彦氏の議論を紹介します。
市田氏によると、1807-8年に書かれた『四運動の理論』と、1810年代後半に着想された『愛の新世界』には大きな違いが見出されます。それは情念論《7:09》における「愛」が、フーリエの体系全体を統べる特権的な概念に変わったことです。
この一節を端緒として、第二基本情念の一分枝にすぎなかった恋愛が、三つの基本情念を包摂する情念運動の「全般的基軸」に、あらゆる情念の移行と変容を司る原理そのものに上昇しているようなのです。
そこでは「精神と物質(肉欲)の二元論という伝統的思考方法が保存されていると同時に解消されている[…]。弁証法的な思考が「二」をメタレベルで総合する「一」を求めるのに対し、フーリエには「対立」とその「乗り越え」という問題意識が存在しない。精神と物質という二つの要素は複合され、冪乗されて均衡するのである」*13。
ただし、この均衡は奇妙なねじれの反復です。フーリエは心情愛を唯物愛の上位に置きながら、唯物愛を「君主より権力をもっている大臣」*14と形容し、位階上の優位性と力能上の優位性で競い合う二要素の交錯において、常に愛を語ります。「心情愛が唯物愛とともにいつでも介在しているような多婚や全婚だけが問題なのである」*15。
唯物愛と心情愛の緊張関係は、「微妙なゆらぎを増幅させながら不協和音の強度を高めてゆく。精神性が高まれば高まるほど肉体の美と性的技巧は研ぎ澄まされ、それによって目ざめさせられた体表を走り抜ける極微な感覚が全人類への博愛精神を呼びさます。フーリエが夢想したのは確かにそんな相乗作用だった」*16。
つまり、三つの第一次情念、一二の第二次情念、三十二の第三次情念、百三十四の四次情念、四百四の五次情念、それらに基づく八一〇の情念類型《8:23》、といったフーリエ理論を貫く累乗的計算は、唯物愛と心情愛のねじれが生み出す振動の反復によって、肉体関係の拡大そのものから精神を生み出す過程と解釈できるのです。
市田氏が提出した「ねじれ=基本情念の衝突」という実在性の流れとしての愛を、以下では山括弧付きの〈愛〉と表記します。
図表に整理しましょう。まず、『四運動の理論』の情念論から作成された情念樹のイメージがあります。
この垂直的な展開図をテーブルに畳み込んだ上で、市田氏が基本情念に対応させた快楽の性質を加えます。そして、これらの情念と快楽が衝突する流れとしての〈愛〉を重ねたものが下図になります。
§3 基本情念の三つのねじれ
本節では、フーリエにおける「情念」概念の歴史的特徴を瞥見しながら、唯物愛と心情愛のねじれ=〈愛〉の内実を掘り下げます。というのも、唯物愛=感覚には能動的受動性という形で、心情愛=感情には受動的能動性という形で、それぞれの内部に別のねじれが見出されるためです。
デカルト、ヒュームを代表格とする18世紀までのフランス哲学とイギリス経験論は、理性の能動性との対比や他者の行為に対する反応といった側面から、「情念 passion」「感覚 sens」に受動性を割り当てます。そして感覚概念の下に味覚、触覚、視覚、聴覚、嗅覚を包括する。対してフーリエは、18世紀の経験主義を総括するかのように、この五感を第一(第二/第三と並ぶ)基本情念に分類し、感覚を他の情念と平等な地位に置きます。結果、フーリエの「情念」はむしろヴォルフやライプニッツといったドイツ能力心理学に近い「能力」のニュアンスを帯びます。そこでは受動的とされてきた情念に、それぞれに自律的な性格という意味での能動性が付与されているのです*17。
〈第一基本情念=奢侈への傾向=感覚情念〉は、まずもって感覚それ自体に作用する情念です。例えば、調和世界の男女が身体を露出し合う単純自然の礼砲《23:10》や美術館の狂宴*18では、視覚的な快によって触覚の欲望が刺激され、全有美食戦争では食欲を満たした後に腹ごなしの性交が営まれる《35:37》といった、五感内部での連鎖反応が描写されています。
五感相互の作用と反作用(反応)が弦のように響き合い、奢侈へと向かって自ずから快楽を増幅していくこの働きは、受動的な感覚の能動的作用と呼ぶほかないものです。ここに市田氏は観念連合で知られるハートリーの振動説や、ディドロ『ダランベールの夢』における「感性と記憶を備えたクラヴサン」として共鳴し合う人間観との繋がりを見ています。
〈第二基本情念=集団への傾向=感情情念〉もまた、感覚を制御する意志の優越性を持つ以前に、それ自体で成立する情念の領域です。例えばフーリエが特に評価する純粋心情愛=セラドン愛は、恋人の身体を欠いたまま思い慕う恋愛でした《20:08》。ここで重要なのは、性交なしの恋愛という自己満足が、他の目的を持たない自律した欲望として名付けられていることです。セラドン愛は名声に促進される側面もありますが《24:42》、第一にはその貴重さにおいて求められ《29:18》、主体の内の欲望の変形が結果として称賛を浴びるにすぎません《30:14》。第二基本情念は集団的精神性=感情が能動的に発動すること自体の快に基づいて設定されています。
しかし、心情愛=第二基本情念という君主は、つねに唯物愛=第一基本情念という「君主より権力をもっている大臣」に先立たれています。セラドン愛は恋人への想像的な快を自律させる前に、視覚の快による触発を受けている。この閑却される先後関係こそ、能動的な感情の受動的作用です*19。
このように〈感覚=能動的受動性〉と〈感情=受動的能動性〉は相互に自律するため、「系列性の介入がないかぎり永久に啀みあうばかり」であり、両者の間に平衡を保つ媒介の役割が〈第三基本情念=系列への傾向=配分情念〉に求められます*20。
しかし、第一/第二基本情念とは異なり、第三基本情念は〈情念系列〉という諸集団の分割と結合に即して語られるばかりで、ある身体に帰属する能力という性格が見出せません。フーリエ情念論を整合的に解釈させない難しさがここにあります。
先に触れた快楽主義という別の角度から検討してみます。「人間」という認識論的統一場を確立せず客体的な表象の分類と秩序付けに邁進した18世紀の理性が、決定不可能な裂け目として抱え込んでいた快楽や情念に、人間の枠を超えた自然と歴史の総体を委ねるフーリエ理論は、カント以後の人間学が理性とは異なる領域としての道徳的意志を設定し、先験的主体の表象空間という新たな知の実定領域に情念を囲い込んで安全化していく過程で不可能になる試みです。18世紀精神の客観主義と19世紀精神の主観主義に引き裂かれた過渡期の条件に、サドとフーリエの特異性は由来します。
そして、サドが快楽の物理的拡大を無情動な反復へ徹底させるのに対し、フーリエは快楽の物理的限界を超える方向に舵を切ります。例えば著作の随所に散らばる、快楽の「量」を限界付ける人間身体そのものを変形させる思弁です。調和人の二メートルを超える身長、尻尾のような第三の手アルシブラ*21、四時間を切る睡眠、一日五回以上の食事、等々。
さらに身体=量的リミットの変形を超えて、快楽の「質」を無限に増大させるべく、複合・分裂・転換という「複数の情念を組み合わせること」自体の情念である第三基本情念が設定された、と見ることができます。ここには差異化と多様化という快楽の形相こそが、実は快楽の質料であり実体でもあると言い張る転倒が起きているようなのです*22。
この第三基本情念のねじれに窺える理論的野心は、商業批判、一夫一婦制批判、サン=シモンとの対立といった様々な否定的契機に裏打ちされた、ユートピア構想の積極性そのものと言えます。つまり情念論は、身体=量的快と社会=質的快を同一平面上で問題化している。そこには産業、政治、恋愛、家庭といった社会的諸領域を還元して相互に内在化する、ただひとつの実体的な層としての〈情念〉が作動しています*23。
『愛の新世界』は身体と社会を同時に変形するべく、〈情念〉の平面上で身体だけが担いうる局所化不可能な諸力の交換を〈愛〉と語っているようなのです。第一・第二基本情念が表現する認識論上の唯物愛と心情愛のねじれ=〈愛〉は、第三基本情念が表現する存在論上の身体と社会のねじれ=〈情念〉によって再二重化または累乗され続けている、と整理できます。
とはいえ、福井和美氏の表現で補足すると、フーリエの言説は「私の身体」という形象が発生しないように構成されています*24。自身の女性同性愛嗜好に気付いた体験は「ある偶然のおかげ」と仄めかされ*25、様々な性的嗜好の細部も「礼を失するので紹介しない」*26、等々。結局、フーリエにおける情念の働きは、身体の能力にも特定の個体にも実体化できません。特権的な形象を持たない三つの基本情念は、第三基本情念という「遍在する媒介」あるいは「無媒介的な媒介」によって、中心を欠いたまま作用し合っているようです。
人間身体を変形させるほど強烈な欲望の二重性である〈愛〉が、確固とした個体の輪郭を維持する暇もなく、〈情念〉によって一挙に社会的領野の触発を受けることで、無数の精神あるいは奇癖を生成していく。このような欲望の発生的原理としてフーリエ情念論を要約できます。〈愛〉が〈情念〉に累乗されるこの〈情念の無媒介的作用〉は(§1)、どのように知覚されるのか。おそらくこれはフーリエにならって、解釈者が自身の身体と情念の変形を含んだ観念を発生させる限りでしか解答できない問題です。
§4 情念と理性の無媒介的区別について
ところで、基本情念の根源には幹があります(図1)。この幹は統一性/統一主義(unitéisme)と呼ばれ、文明人には知られておらず、調和世界でのみ無限の博愛という究極の情念を発動させるものと予告されます。この統一性と基本情念は、スピノザの神に近しい基本構成を有するように見えるのです。
すなわち、第一/第二(欲望)と第三(社会)の同時的かつ無媒介的な一致である統一性(実体)は、三つの基本情念(属性)の矛盾として常に実在している。統一性は人間精神の諸能力や諸感情を総合する統覚の主体ではなく、それらを絶えず産出する能産的自然あるいは情念引力という唯一の実体であり、無意識において常に人間身体を作動させているものと考えられるのです。例えば、無限の博愛は持てない文明人の我々も、現実的対象の感覚的な快に飽き、イメージに自足した欲望を奇癖とすら思わずに自明性として生きています。これを驚くべき事態と捉え直せば、統一性が我々の内に生き、我々も統一性を生きていることは、納得できると思われます。
しかし、統一性と基本情念をスピノザの神即自然と捉えれば、この矛盾は矛盾ではありえません。人間の存在を最初に存立させる各個の人間身体の触発を通じて、自然の完全性を実践的に肯定するスピノザの自然主義は、全ての事象や思考のうちに矛盾・対立・否定性の存在を認めないためです*28。
フーリエ情念論は欲望と社会をつなぐ身体に変形可能性を認めることで、人間と自然の統一を情念の可塑性において肯定的に思考しうる体系と言えます(抽象的すぎてついていけない方は、バーチャルリアリティやVTuberを念頭に置いてみてください)。このフーリエにおける身体の不確かさを、もっぱら精神と否定性の優位が占める西洋哲学の歴史において、例外的に身体の思考を導入したスピノザが、ぴったり補いうると感じるのです。予告的かつ妄想的に、大まかに対応しうる両者の概念群を下図に掲げます。
以下は江川隆男氏のスピノザ解釈を借りますが、スピノザとドゥルーズを総合した江川氏の体系を要約・解説するといった無謀な真似はできません。あくまで「心情愛が唯物愛とともにいつでも介在しているような多婚や全婚」を知覚するという、先行研究のドゥルーズ的フーリエ論から抽出した本稿固有の実践的課題と結びつく限りで、江川哲学の片言隻句を悪用するに留まることを前置きさせてください。
スピノザとフーリエの共通項に自由意志批判が挙げられます。フーリエは自由意志の名の下に理性によって情念を抑えようとする哲学者たちの誤りを指摘した上で、もし自由意志が正しく発揮されれば、理性は「[情念]引力を和らげるという不可能な任務をもはや担わず、ただ引力を理解し、与えられる快楽の充溢さが選択され段階づけられるように、引力を導くことだけを役目とする」と言います。「なぜなら理性は引力に奉仕し、引力を洗練させるからである」*29。フーリエにおいて情念と理性は対立せず、相互に助け合うことで自由意志の構成を正す関係にあるようです。これを江川氏のスピノザ解釈の眼目である、人間精神の本質としての欲望の理性化による自由意志の消去と重ねてみたいのです。
スピノザは人間に三つの知の様式を認めます。物の観念を混乱した形で精神に表象して受動感情に触発される表象知(第一種の認識)、受動感情に含まれる個物の存在を原因から認識することで共通概念を形成する理性知(第二種の認識)、理性の能動感情から発生的に個物の本質あるいは神の観念を直観することで至福に至る直観知(第三種の認識)です。表象知から理性知への移行は、『エチカ』第三部の〈感情の幾何学〉から第四部の〈感情の批判的倫理学〉への移行と概ね対応しながら、相互矛盾や乗り越えではなく、欲望のうちで内包的に反転する関係として捉えられます。
第4部定理59証明における「理性と一致する、善である限りの喜び」が、理性と協働するフーリエの「情念」だと考えてみます。そこに含まれる第一基本情念(能動的受動性)と第二基本情念(受動的能動性)のねじれを、(1)受動的な身体の力能の増大と(2)その力能が十全な認識を有して能動性に反転する関係として捉え直したいのです。それは唯物愛の充足が心情愛を同時に発動させる機序でもありえます。「理性とは、受動感情としての欲望が外部の物体による自己の人間身体の触発についての原因からの内在的理解を欲する際に生じる観念の作用のことである」*30。それぞれの認識に道徳的な優劣の区別ではない、形成の秩序における無媒介的区別を認めることで、情念または欲望と呼ばれる人間の基本感情は理性化しうる。これがフーリエにおける〈情念の一義性〉に投射しうる、スピノザの一義性の思考です。
§5 全婚愛の至福か残酷
以上の説明は膨大な論点を取り落しています。本稿では文字数の都合上、唯物愛と心情愛が累乗された先に知覚される全婚愛が、スピノザの至福と通底することの確信を、筆者の人間身体に証言させることしかできません。
具体的な性愛論からスピノザを眺めてみましょう。ベルナール・ポートラはスピノザ研究の自著を要約する講演において、恋人間の三角関係がもたらす嫉妬の連鎖という悲しみの情動を離れ、第三種の認識による神への孤独な知的愛に向かう過程として、『エチカ』の感情論を再構成しています。いわく、スピノザは人間同士の「私に似た他者」に対する想像的な愛を放棄させようとしている。そもそも彼は局部に集中することで身体の活動力能を減少させる性的快楽を評価していない。人間身体の幸福を言祝ぐ「喜びの哲学者スピノザ」像は相対化されるべきである、等々*31。
確かに表象知から理性知への移行には、受動感情の減算が伴います。受動感情と快楽は際限がなく、過剰になること自体を本性とするためです。これは江川氏に送り返せば、無媒介的区別に伴う強度的度合の生成に関連する議論ですが、そこまでは踏み込めません。ここでは、単に禁欲的な信仰者としてスピノザを解釈する退屈さのみ確認できれば十分でしょう。なぜなら、第三種の認識は神を静謐に観想することだけではなく、神という能産的自然の働きを含む(ゆえに直観することしかできない)様態=個物の身体の本質を認識することでもあるためです。言い換えると、あらゆる世人の情念を微細に知覚するフーリエの全婚愛は、神への知的愛に等しいと考えられます。
至福の要件から全婚愛(omnigamie)の発生を考えてみます。図表4をご覧ください。まず、欲望は感覚的な快(奢侈性-表象知)に触発され、これを最近原因として唯物愛(受動感情)を形成します。この過程に想定される単婚愛(monogamie)は、恋人相互の同一化によって想像的な快(集団性-理性知)の発生要素となります。そして、理性知による心情愛(能動感情)は、受動感情なしに(例えば妻の排他的な所有や嫉妬なしに)同じ活動へと赴かせ、姦通やスワッピングなどの多婚愛(polygamie)を形成します。これが異化の快(系列性-直観知)の発生要素になります。
しかし、第三基本情念は身体の能力と社会的領野の境目でした。ここで唯物愛と心情愛は、ねじれて均衡した〈愛〉になります。単なる肉欲の増幅とも、単なる心的絆の拡大とも異なる事態が起きています。複数の情念の「複合」、異なる情念を行き交う「移り気」、分裂した情念同士の「密謀」。これらの〈愛〉は、身体の内部ですら相異なった諸情念の複合体である個物=様態たちの、その時々の交錯の仕方だけを構成しています。この存在者の雑踏においては、身体の存在の仕方ではなく、情念引力という自然の働きそのものが漲った、他者の身体の本質を直観することしかできないはずです。ここで生じる至福、あるいは全婚愛という能動感情は、優れて社会的な快として想定できるのです。
ところで、全婚愛の現れには、調和的には直行収束統一愛(両性を含む狂宴)、逆行収束統一愛(天使結合)、文明的には直行発散統一愛(後宮)、逆行発散統一愛(女衒)の四つがありました《21:07》。すでに直観されるしかない議論に入り込んでいるので、スピノザ流の「論証による永遠性の感得」*32を断念して説明抜きに断言しますが、フーリエのユートピアならぬ文明世界に生きる我々は、諸制度が禁じている特に前二者の全婚愛を、思考あるいは幻想において、断固として体験しています。例えば天使結合を、肉体関係を持たない身体が万人に快楽を提供するキャラクター文化において。
フーリエが夢想した至高の愛を、乱交をモデルにイメージするのはナンセンスです。一度に全ての他者と性交する究極の快楽など、現状では肉体的にも精神的にも成立しないためです。それゆえ、文明世界の人間に現れる限りでの全婚愛は、受動的な快楽を相応に減算し、身体の観念やその本質の観想に落ち着くと言うべきでしょう。その快楽の究極的なモデルは、スピノザの至福と同様に、身体の自己触発が相応しいはずです。分かりやすく言い換えると、多数の身体の本質を情念系列に縮約し、全てのキャラクターを観想しながら自慰をすることは可能なのです。無数のキャラクターによるセラドン愛手淫を行った累乗過程から、私の身体はそう証言できます《39:10》。
そしてこの〈愛〉は、あれこれのキャラクターがもたらす快楽の原因を、あれこれの他者の情念へと理性によって遡る限りで、万人の情念の微細な知覚を含んでいます。こうして全婚愛という概念は、我々消費者が日常の奥底で深化させた、恐ろしく受動的な身体の力能そのものを肯定しうるのです。
とはいえ、以上の全ては倒錯者が分泌する妄想です。言い忘れましたが、本稿はマルクスの言う「形而上学的な小理屈や神学的な小言でいっぱい」な商品の物神性に関する考察です。キャラクター文化という「経験的なものの諸形象に基づいて超越論的なものを複写」した*33、正しく自然学の後としての形而上学にすぎません。
それでも私は、自然を必然性の様相において遍く肯定するスピノザの自然学と、情念を偶然性の様相において遍く肯定するフーリエの形而上学とのあいだで、「別様でありえたかもしれない」という可能性/偶然性の思考を消尽し、我々の生を必然として思考する方法を求めています。すなわち、より多くの身体の観念を知覚しうるアニメ、漫画、ソシャゲ、エロゲ、ASMR、VTuberといった消費文化を死ぬまで愛し続ける人生が精神的にも肉体的にも最大の幸福である、という我々の不可解な自明性=肯定性を肯定することにしか、本稿の関心はありません。
しかし、この現働化された必然に服従する至福には、残酷が伴います。
万人に無償の愛と快楽を提供する天使カップルによって宗教的に統一された愛の新世界を《26:18》、もし破壊しうるとすれば、「いかなる受動性よりも受動的であるような悲しみの情動[…]、けっして喜びに反転も移行もしえないような悲しみ[…]、いわば絶対的受苦」*36としての残酷を思考する必要があります。この困難な批判の問題は、示唆に留めざるを得ません。
§6 フーリエとスピノザのユートピア
愛の実在性を無限小に至るまで認識するフーリエの全婚愛は、我々現代人が一夫一婦制に束縛された道徳意識の傍ら、身体の無意識で生きている反道徳的なエチカと言えます。最後に蛇足ながら、この倫理の政治的な価値を検討して、フーリエとスピノザのユートピアを遠望します。
市田氏の議論に戻りましょう(§3)。フーリエの人間観は、18世紀のディドロが言う「感性と記憶を備えたクラヴサンとして共鳴し合う人間」、超越論的統覚を想定しない受動的感覚の束としての人間観が、例えば19世紀のヘーゲルが言う精神、つまり自然を征する否定的能動性として歴史を進展させるような「時間化された人間観」に移行する過渡期にあります。フーリエは18世紀と19世紀の狭間で、時間化されきらない無際限な空間的膨張として、人間の欲望と社会の発展を理解していると言えます*37。
18世紀的な人間観を、例えば千葉雅也氏が初期ドゥルーズのヒューム論から導出した、第一に受動的感覚の束として存在する、Twitterをモデルとした21世紀的な人間理解に置き換えてみてください*38。たちどころにフーリエは、今や統計学的な規模でしか解釈されない、サイバースペースという網の目状の空間イメージにおける「つながり」だけを肥大させ、未来の展望も歴史も無化するSNS時代の思想家に変貌するかもしれません。
しかし、いま私が弄したような批評家好みのアナロジーを、知覚と思考の過程から捉え直してみましょう。それはスピノザに言わせれば、身体がその能力を超えた過剰な触発を諸物体から受けて混乱した表象像を形成し、結果として諸物体に無差異な超越概念や一般概念を分泌したにすぎません*39。無際限な我々の存在を、手軽に一括して表象することに何の意味があるのでしょうか。むしろ差異を活性化させること、無際限な欲望の諸様態である我々自身を質的に数えることをフーリエに学べるはずです。
フーリエをアイロニカルに現代性と類比するだけの議論に、意味があるとは思えません。例えば石井洋二郎氏はフーリエの空想性に現代統治のコンセンサスである社会民主主義との近しさを指摘してお茶を濁し*40、三原智子氏はフーリエのユートピアにおけるアレント的活動の不在からなる政治的受動性を強調することで、管理社会論のアイロニーに耽溺しきった外挿的な読解を示しています*41。これらに対して本稿は愚直に、私達の欲望を絶えざる革命の過程として解釈し直す方法を、フーリエに見出したいのです。
デカルトの情念論やホッブズの国家論は、情念の受動的な性格とその規制の必要を説き、受動性と能動性を別々の実体(能力としては感情と理性、主体としては臣民と王)に割り振った上で、特権的な媒介者としての国家において人間の結合を必然化します。そのモデルは〈国家-集団性-理性〉と〈臣民-個別性-情念〉の二つ組です。しかし、そもそも主体の内部で〈感覚=能動的受動性=王としての臣民〉と〈感情=受動的能動性=臣民としての王〉を〈配分=無媒介的に媒介〉させるフーリエにあっては、個体間の結合も情念間の結合も、一つの偶然でしかありえません。フーリエにおいて政治とは〈愛〉と一体であり、個別性と集団性が各時点で交錯する様態的タイプを種別的に思考するだけの領域です。つまり、フーリエのように人間とその欲望を理解すれば、国家の一般的起源の問題、例えば戦争状態によってコモンウェルスの絶対権力を説明せざるを得ないような愚鈍な問いとは、縁を切ることができます*42。とはいえ、これはネグリ的スピノザのマルチチュード論に寄りすぎた説明かもしれません。
本稿が大いに依拠した市田良彦氏は、80-90年代のフーリエ論を通過した後の著作で、現代の政治理性を「文化の全体性/倫理の無限性」の緊張関係として論じています*43。「全体性と無限」のあいだを揺動する政治主体としての我々の自由を、欲望の内で「サドとフーリエ」のあいだを揺動する性的主体としての我々の自由に遡って捉え直してみること。つまり本稿は、密室の無情動な淫蕩(サド)と存在論的な全婚愛(フーリエ)とのあいだで無限振動する生きた貨幣(クロソウスキー)に、スピノザの〈身体の思考〉を導入することで、我々の感性と知性を問題化する仕方そのものを変形する悪あがきであった、と総括できます。オタクという「狂気」をフーリエの「狂気」によって理性化する試みと言い換えても構いません。
さらに本音を言えば、「オタク的なるものの非政治性」というイメージを形成している、不活性な知覚と思考そのものを問い直すことが、第一のフーリエ的実践であると言いたいのです。もちろんそれは、革命前期に開花した「ポルノグラフィの政治利用」を復古王政期に反復し、性的「奇癖」を政治的腐敗ではなく政治的完成の象徴となすフーリエの反時代性を*44、ポルノにしか救われえない人民の反政治として復権させることにすぎないかもしれません。例えば、自民党に擁立された赤松健氏とそれに激昂する高遠るい氏の対立*45といったサブカル政治文化に、悲しみの情動を覚えることは確かですから。しかしその悲しみは、かつて『ネギま!』主題歌「ハッピーマテリアル」のCDを買ってオリコンランクイン運動に加担した中学生当時の自己の情念が何だったのかを訝しみ、中年に至って『はぐれアイドル地獄変』に救われる人生とは一体何なのか、に立ち止まる契機にもなりえます。むしろ我々の情念は、常にそのような実在的経験を構成しているはずなのです。あるいは、本田透氏や小山晃弘氏などが現働化してきた、恋愛という下位(とされる)政治を「反動」と嘲笑し続けた結果がこの状況を生んだとすれば、反動の形而上学を内側から消尽するためにも、フーリエを読み継ぐべきです。なによりも、状況の根底で、一夫一婦制に囚われた異性愛者の知性と感性そのものを変形するためにこそ。商業的幸福の惨めさを恥じず、他者の嗜癖を揶揄せず、人間の情念をただ凝視することで、万人の幸福を自由と必然性の相において認識することを、フーリエとスピノザは要求しています。
鹿島茂氏がオタク文化に類比した限りでの《37:42》、女性同性愛嗜好者としてのフーリエのユートピアは、すでに実現しています《18:42》。その後に来るべきフーリエとスピノザのユートピアは、欲望と力能が実体化されない社会、つまりオタクも政治家も哲学者も存在しない社会ではないでしょうか。「そのとき[…]には、政治と哲学は一人一人の人間における行為と思惟の活動一般のなかに解消しているであろう。スピノザ風に言い換えれば、人間の様態的活動に仕える――それを統制するのではなく――二大属性になり下がっているであろう」*46 。
江川氏のスピノザに言わせれば、批判されるべきは人間の身体ではなく精神である。我々が生きる愛の新世界を、受動感情に満ちた非十全性の実在的領域を、「自由か従属か」の対立項で単純化する前に、自然の諸条件のうちで自由(必然性)と従属(強制性)の両者を具体的に現働化する人間の本質である欲望あるいは情念を肯定することが、なべて批判と創造の出発点になるはずです*47。「自由意志を振りかざすこと自体が「右派」であり、すべてを自由意志ではなく知覚(感性)や観念(知性)の問題として理解することが、それ自体で絶えざる「左派」の表明になる」*48という江川氏の言明に、私は肯んじます。
もちろん、自由意志の幻想を消去するためには、言文一致の「私」など用いずに、無数のキャラクター(カラクテール)が表現する情念にただ語らせること、その雑音に身を委ねることによって、思考がコギトである以前に身体のノイズであったことを、想起するだけでよいのではありますが。
(文責:マルドロールちゃん)
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