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(NOT)哲学的落語断章 第1回

 こんばんは、久我宗綱です。今回からここのnoteで連載をやらせていただきます。と言ってもまず今回はイントロダクションとして、どのような内容をどのような形式で書いていくかの簡単な説明をさせていただければと思います。

 この連載はPROJEKT METAPHYSICA Vol.1にて寄稿した「落語から考える人間の心 ~a little~」の続きのようなものです。本来あの論考には後半部に個別具体的な演目を扱うパートが入る予定だったのですが、諸般の事情によりそこはカットしました。察してください。
 読んでいなくても分かるようには書いていきますが、読んでもらえるとより面白くなるようにも書きます。気が向いたら買ってね。(https://pro-metaphysica.booth.pm/items/4508159)

 さて、少し真面目な話をします。私が落語について話すときに常に忘れずに持つ信条であり、本連載においても通底する原則、いわば根本命題たり得るものは何でしょうか。
 それはソールズベリ・ドクトリンでもチャーチ=チューリングテーゼでもありません。ましてやニカイア・コンスタンティノポリス信条でもありません。
 それは桂枝雀(1939〜1999)の提唱した「緊張の緩和」及び「サゲの四分類」です。この連載では二つをひっくるめて「枝雀理論」(1)と呼称することにします 。これらの詳しい話は追々やりますので待っててください。もしくは前述の拙稿を読んでください(隙あらば宣伝をすな)。
 つまり、この連載はその枝雀理論について書かれたものなのか? 答えは半分イエスで半分ノーです。もちろん枝雀理論を扱うことが目的です。しかし、枝雀理論“だけ”を扱うものではありません。
 各回のテーマに一つの演目を据え、それに哲学の話を織り交ぜたり織り交ぜなかったりします。そして、個別の演目から枝雀理論に立ち戻っていくアプローチを行なっていきます。
 具体論を通じて原則に迫る。これがこの連載の目標です。

 また、落語というものは例え同じ演目であっても演者によって演出など細部の違いが生まれます。細部どころではない違いがある場合もあります。そのため、各回参考口演を挙げ、何を元にして書いているのか示していこうと思います。なるべくC Dなどの読者が後から確認できるような媒体を挙げていくつもりですが、場合によってはテレビの放送や実際の口演を参照する場合もあるかと思うので、その際はご容赦ください。

 最後に、先行研究的なものとして中村昇『落語―哲学』を挙げておきます。こちらに関しては、自分としてはコンセプトは異なったものであるとは考えていますが、それでも落語と哲学の二軸を扱う性質上重なるところが生まれてくることはあるでしょうから、その辺りは気をつけたいところですね。
 あと、ネタ被りになるので当分の間はこの本で扱われている演目をテーマにすることは控えようかなとは思っています。そう思ってはいますが演目は有限ですし、あちらで扱われているものに結構メジャーなものもあるので、そのうち同じものをやる可能性はあるわけですが、その際にはできる限り違った視点を提供できるよう心がけます。

 まぁ堅い話をしましたが、エッセイくらいの気持ちで書いていきますので、肩の力を抜いて読んでもらえるとありがたいです。こっちも全ての力を抜きながら書いているので。

 というわけでイントロダクションはこれくらいにして、実際にどんな感じでやっていくかお試しで見ていただくために、第一回は「猫の皿」(3) という演目のお話を少しだけしましょう。
 まずはこの演目の簡単なあらすじをご紹介します。
 ある旅の古道具屋が茶店に立ち寄ると、店の軒先では猫が餌を食べていました。ふと猫がご飯を食べている器を見ると、これがなんと「高麗の梅鉢」という江戸で売れば300両(4)にもなる名品。ここでなんとか安く手に入れて売れば大儲け。男はその皿を手に入れるために、猫を3両で譲ってもらい、ついでに「猫は慣れない器だと食欲が落ちるから」と口実をつけて皿も持っていくという策を講じます。
 しかしながら案に相違して店主からその皿はダメだと止められてしまう。店主はその皿の価値を知っていたのです。当てが外れた古道具屋は店主に「なんだってそんな皿で猫に飯を食わせておくんだ?」と尋ねます。店主が答えて曰く、「この皿で猫にご飯を食べさせていますと、時々猫が3両で売れるんでございます」。
 まぁあらすじとしてはざっとこんな話です。本当は実際に聴いて欲しいのですが。

 さて、この演目は枝雀による四分類の中では「謎解き」に当たります。残りの三つの分類は「ドンデン」「へん」「合わせ」なのですが、それらの話は追々やりましょう。今回はこの「謎解き」についての解説(というより私見)を少しだけしていきたいと思います。
 「謎解き」とは、枝雀が語るところによれば「文字通り謎を解いた答えがサゲになるという型」(桂枝雀、1993年、p. 96)というものです。サゲの前で聴き手側がなんらかの疑問を持ち、それを解決する形でサゲが存在する感じですね。
 「猫の皿」で言えば、「なんだってそんな皿で猫に飯を食わせておくんだ?」が謎、「この皿で猫にご飯を食べさせていますと、時々猫が3両で売れるんでございます」が解決に当たります。解決のところで聞き手が納得する形でオチを提示させ、それによる精神的安定が笑いにつながるという発想な訳です。
 これこそが枝雀の「緊張の緩和」理論なのです。「なぜそんなことが起きているのだろう?」という通常とは異なる状況を提示し、そこで気持ちに「緊張」を発生させます。今回で言えば、「なぜそんな高価な皿で猫に餌を食べさせているのか?もったいないのではないか?」のような感情を観客に抱かせるのです。そしてサゲでそれへの答えを出し、普通の状況へ戻すことで、先ほど発生した「緊張」を「緩和」させる。ここに笑いが発生しているとするのが枝雀理論であると私は考えています。

 さて、いつになったら哲学の話が出てくるのかとお待ちかねの皆さんもいるかと思います。せっかくなので、その辺りの話も少しだけ。とは言うものの、いわゆる“哲学的”な話は期待しないでください。
 PROJEKT METAPHYSICA Vol.1の拙稿において、枝雀理論とともに利用したものに、マシュー・M・ハーレー、ダニエル・C・デネット、レジナルド・B・アダムスJr.の三名によって書かれた『ヒトはなぜ笑うのか ユーモアが存在する理由』にて展開された理論がありました。以降この理論は便宜上「ハーレー理論」と呼称します。
 ハーレーらはユーモアの情動が発生する条件について、「ある仮定●●がメンタルスペース内で認識的にコミット●●●●●●●●されていて、そのあと、実はまちがい●●●●だったと判明した時」(5) だとしている。
 「メンタルスペース」とか「認識的にコミット」とかよく分からない語句が並んでおり、当惑されている読者諸賢もおられることでしょう。今回はまず「ある仮定」が「まちがいだったと判明する」と言うところに着目して欲しい。これを「猫の皿」に照らし合わせてみましょう。「ある仮定」とは「店主が皿の価値を知らずに猫に餌をやっている」との道具屋の考えですね。そして、サゲに至るにつれてそれが誤っていたことが判明するわけであり、この過程で観客はおかしさを感じるのです。「猫の皿」の話を通じた全体の笑いの構造の説明の一つとして、十分成立しうるものではないでしょうか。
 では、「メンタルスペース内で認識的にコミットされる」とはどういうことなのか?しかし、それを書くには残りの余白が狭すぎるようです。ここを説明し切るのが本連載の第二の目標といってもいいかも知れません。毎回少しずつ話を進めていこうと思います。
 また、枝雀理論とハーレー理論はどういう相違があり、その相違はなぜ生まれたのか?これは「謎解き」だけでなく、他の分類にも目をやることではっきりしていくポイントでしょう。最終回でそこの境地に皆さんを導けるように頑張ります。

 というわけで、今回はイントロダクション&「猫の皿」でした。次回はもう少し「謎解き」とハーレー理論を掘り下げていきたいと思います。お楽しみに。

今回の参考口演
立川志の輔「猫の皿」

参考資料
桂枝雀「緊張の緩和とサゲの四分類」、『上方芸能』第68号、1980年、p. 10~15。
桂枝雀『らくごD E枝雀』ちくま文庫、筑摩書房、1993年。
中村昇『落語―哲学』、亜紀書房、2018年。
永田義直編著『古典落語事典』、緑樹出版、1988年。
瀧口雅仁『古典・新作 落語事典』、丸善出版、2016年。
マシュー・M・ハーレー、ダニエル・C・デネット、レジナルド・B・アダムスJr.(片岡宏仁訳)『ヒトはなぜ笑うのか ユーモアが存在する理由』勁草書房、2015年。
古今亭志ん生「猫の皿」『NHK落語名人選2 五代目 古今亭 志ん生 猫の皿・唐茄子屋』、ユニバーサルミュージック合同会社、POCN-1002、1990年。
立川志の輔「猫の皿」『志の輔らくごBOX 1 バスストップ 猫の皿』、コロムビアミュージックエンタテインメント、COCJ-32011、2003年。

(1)この二つは厳密に考えると統合的に組み上げられたものではないので、この呼び方はちょっと雑な気はするが、便宜上ということで。
(2)実はここの「について」の単語はこの連載の裏テーマなのですが、今は忘れてください。ここには脚注はありませんでした。
(3) 別題「猫の茶碗」とも。
(4)永田義直(1988年)p. 406では「300円」となっている。瀧口雅仁(2016年)p. 224~225、志ん生(1990年)、志の輔(2003年)では「300両」。時代設定の違いによるものと考えられる。
(5)マシュー・M・ハーレー、ダニエル・C・デネット、レジナルド・B・アダムスJr.、2016、p. 206、傍点ママ。

(文責:久我宗綱/絵:manpowerspot


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