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世界はひとつではない(かもしれない)

 大学生の夏休み、帰省していた実家で「明日(大学のある)山梨へ帰るよ。」と話すと、父が寂しそうな顔をして「帰るじゃなくて戻るでしょ。」と言った。
 山梨から新潟へ帰省する途中、電車の窓から見慣れた田園風景が目に入ると、そこに住んでいた頃の自分を思い出しホッと安心するような、懐かしくて切なくなるような感情を抱いた。山梨へ住んでいる期間が長くなってくると今度は、新潟へ向かう途中で感じるのと同じ切ない安心感を山梨へ戻る途中で乗る富士急行の中でも感じるようになった。あれ、私の帰る場所はどっちだっけと宙ぶらりんな気持ちになったのを覚えている。

 例えば小学生のころ、私は大まかに分けて二つの小さな世界しか知らなかった。家族5人の世界と、小学校の世界。世界で一番面白い出来事は家族の世界の中にあったし、世界で一番悲しい出来事は小学校の世界の中にあった。周りの大人の言うことはいつも世界で一番正しかった。中学生になると、家族5人の世界と、小学校の世界に、中学校の世界が加わった。高校生では、オーストラリアに留学をしたので、高校の世界の他にもオーストラリアの家族の世界やオーストラリアの高校の世界も足された。
 年を重ね属する場所が増えるたびに世界が増えていくようだった。色んな場所に行ったり、色んな人と出会ったりすることを「世界が広がる」と表す人もいるけど、私にとっては「世界が増える」感覚だ。その時一緒にいる人に合わせて私の世界は変わる。
 それぞれの世界はそれぞれの色を持っている。世界によって時間の進むはやさが違う。温度が違う。吹く風の強さが違う。こっちの世界での当たり前はあっちの世界では当たり前じゃなくて、あっちの世界で一番正しいと言われていたこととそっちの世界で一番正しいと言われていたことは全く違った。それぞれの違う世界に同時に存在することは出来なくて、かといって、ひとつの世界だけにとどまることも出来なくて、私は細かくいくつもの世界を行き来する。
 世界から世界へ移動するときのちょっと苦しいトンネルの中では、今住んでいる場所から昔住んでいた場所へ帰るときの電車の中で感じるあの感情を思い出す。どちらも私の世界だけど、どちらも私だけの世界ではない。世界が増えるたびに、どこにも完全に属さない私を認識して少しだけ孤独を感じることになった。一つの世界だけになったら、当たり前や信じるものが決まっていたら、もしかしたら楽なのかもしれないとも思う。

 私をとりまくいくつもの世界を実感する一方で、私の手の届かないところにも私の知らない世界が存在しているという意味で、世界はひとつではないと思い知らされることもある。
 友だちから、数年前に亡くなったある芸能人が出演していた動画と一緒に、「今でもこんなにもずっとずっと私の感情を揺さぶる、確実に私の中にいる存在って思うと、死ってなんなんだろうってふと思った」とラインのメッセージが届いた。死んでしまったことと、生きているけどずっと会わないことの違いはなんだろう。会ったことのない人の死が文字に載っかって私のところへ飛んでくると、私が立っている地面の一部がごそっと削られて足元が不安定になるような衝撃を覚える。会わなくても、話さなくても、触れなくても、この世界からひとつの存在が消えてしまうという事実に私は確かにショックを受ける。そのショックによって、私は私から遠く離れた場所にも誰かの世界が存在することを身をもって知ることになる。
 電車の窓から見える風景に映る知らない誰かの生活の一瞬が私の認識の中に入ってくるときの、不思議な感覚を知っているのはきっと私だけではないと思う。ふと見上げた空に飛んでいる飛行機の中にいる(はずの)何十人もの人のそれぞれの思いを想像しするときも同じような感覚を持つ。私が私じゃない誰かの存在を、私の人生や生活の中のほんの一瞬の風景として捉えるとき、誰かもまた、私の存在をその人の人生や生活の中の一瞬の風景として捉えている。それぞれの一瞬の中には表しきれない広さ深さの時間や世界があることを誰もが当たり前のように知っている。ただ、私はどうしたって私からしか世界を見ることが出来ない。誰もがきっと大きな世界の一員でありながら、同時に自身が見ている小さな世界の中心であるのかもしれない。

 世界のただ中にいる限り、私は世界の全体像を確実に把握したり、世界とは何なのかを本当に知ることは出来ない。それでもやっぱりなんとなく痛感しているのは、世界はひとつではないのかもしれないということ。遠い世界で起こった悲しい出来事に私の生活の中の小さな悲しみを簡単に結びつけてしまうし、日本や世界の社会的な問題に眉間にシワを寄せながらも私個人の明日を不安に感じることもある。私を中心に世界が大きく開いたり、小さく閉じたりする。
 私をとりまくいくつもの世界と、私が経験していない、触れられない場所にある世界。総じて世界はひとつではない。ひとつではないけれど、繋がっているのだと思う。

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