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わたしはどこまで一人で、どこから一人ではないのか

 わたしとあなたの間にどれだけの長い距離が、もしくは、どれだけの高い壁があるのだろうか。"あなた"とは、わたし以外の人のことを指す。わたしにとってすべての人があなただし、それぞれのあなたにとってわたしは必ずあなたである。わたしの世界には、"わたし"か"あなた"しかいない。
 生まれてこのかた24年、わたしはたくさんのあなたと出会ってきた。わたしがわたしのことを一人の人間だと知るまえから、わたしのすぐ側にはあなたがいた。あなたはわたしと、空間や時間を共にする。話したり、触れたり、一緒に体を動かしたりする。そのことで、わたしは満たされ、安心し、ときに傷つき、たくさんの感情を知った。

 人は一人ではないと言う人がいる。そう思うことがある。わたしの肉体や心はわたしだけのものだと思っていた。わたしが寒かったり暑かったり痛かったりするとき、わたしがうれしかったり悲しかったりするとき、その感覚を本当に知っているのはわたしだけである。だけどたまに、わたしの体とあなたの心が、あなたの体とわたしの心が繋がっているのを感じる。
 昔から体が弱かったこともあってか、わたしの周りにはわたしの無事を案じてくれている人がとても多い。ある日小さな頃のわたしを知ってくれている人に久しぶりに会ったとき、その人はわたしが元気でいることだけをただ喜んでくれた。大人に近づくにつれてだんだんと努力や成果で評価されることが増えていたので、無事だけを喜んでもらえることに少しむず痒くて照れくさい気持ちになったのを覚えている。わたしの体のことで心が揺れ動くあなたの姿を見ていると、わたしの体がわたしだけのものではないことを実感する。逆も同じで、だれかの体が痛むときにわたしの心が痛むのを感じると、今度はわたしの心もだれかの体に振り回されていることを知る。わたしの体や心には必ずあなたの存在が繋がっていて、そういった意味でわたしは一人ではないのかもしれないと思う。

 一方で人は一人(独り)だと言う人もいる。そう思うこともある。それは特に、近づいたその先に決して触れられないあなたを見つけたときに強く思う。
 誰かと分かりあおうとするとき、わたしは主に言葉を使う。知っている語彙や言葉の使い方が増え、例えば哲学対話の場で言葉を用いて感覚を共有することがあると、わたしの内面とあなたの内面の距離はぐっと近づく。お互いのプロフィールを溶かし、感覚の部分で共感できるところを見つけると、わたしはそれらが混ざり合って一つに重なるのではないかと錯覚する。だけどそれはたいてい幻想で、どれだけあなたに近づいてもどこかで必ずわたしとあなたの境界線が見えてきてしまう。少しずつ膨らんだシャボン玉がパチンと弾けて消えてしまうように、わたしは"わたしだけ"のわたしに弾き返されることになる。わたしとあなたが重なり合うことが出来るのは、お互いのある一面においてだけなのだということはきっと多くの人が経験をもって知っている。だれにも見せない私があって、だれも知らないあなたもあって、そのことに改めて気がつくたびにわたしは一人なのだと感じて少し寂しくなる。生まれたその瞬間から、わたしのすぐ隣にはずっとあなたがいたはずなのに、わたしだけのわたしが存在するというのは本当に不思議なことだ。

 だれとも重ならないわたしを見つけたときや、すべてのあなたとの関わりが一時的になくなったときの寂しさを、わたしたちはよく孤独とよぶ。孤独を楽しむことのできる人もいるけれど、わたしは孤独が少し苦しい。どのあなたともすべての面において完全には重なり合えないことを知っていながらも、そのことを忘れてあなたと近づこうとしてしまうことが何度もある。どうしてわたしは孤独から抜け出したいと願ってしまうのだろう。
 少し前、祈りについて考えていたとき、わたしは複数の人に「なぜ祈るのか」と質問をしていた。現実が祈ったとおりにならないこともあるのに、それでも人は祈る。ある友だちの答えがとても印象的だった。「祈ることで、自分の手の内で抱えていたものを誰かに委ねることが出来る。何かを手放すだけでも楽になるんじゃないかな。」とその人は教えてくれた。孤独が苦しかったり、孤独から抜け出したくなったりする理由もここに所以しているような気がする。
 わたしの人生の中で起こる出来ごとに遭遇し、それに対して様々な感情を抱えることが出来るのはわたしだけである。それでもやっぱり、わたしをわたしだけで取り扱おうとするのはどうにも心許ない。わたしがわたし自身をほんの少しでも手放したいと思うとき、あなたと繋がり、重なりたいと願ってしまうのかもしれない。

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