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目では見えない気もちの話

 ある日ある人と感情について話していたとき、その人が「感情は雲のようで、つねに流れながら入れ変わっていくものだと思う。」と言った。私は、「感情は波のようで、大きすぎるとのまれて溺れてしまう。」と返した。一度生まれた感情の波は完全には引かなくて(消えてなくなることはなくて)、いつも少し水が残る。波が何度も押し寄せるとその水がたまりつづけて、いつか自分が受け止め切れるだけの容量を超えてしまうんじゃないかとこわくなることがある。そのことを伝えると、「残った水は自分だけのものにしているとだんだんと淀んでいってしまうと思う。水を流そうとするとき、自分は心の中の感情を誰かに出来るだけ素直に話して、それに対して反応をもらうようにしている。それでも流しきれなかったら、そのときには他の方法を試すかな。」と教えてくれた。

 感情を素直に人に話すこと以前に、自分の感情を正確に把握し、言葉にすることはとても難しいと感じる。私は自分の心を誰かに話すとき、その心のきっかけとなった具体的な出来事を説明することをいつも少し躊躇してしまう。それはその出来事によって生まれた個人的な感情が、客観的なものさしによって測られてしまうのではないかと恐れているからだ。人は自分自身の経験をもとに、出来事からその登場人物の気持ちを想像したり、共感したり、同情したりすることが出来る。多くを説明せずとも気持ちを想像してもらえるということは、例えば息が吸えないほどに大きな感情の波に溺れてしまっているときにはその心を救ってくれることになるのかもしれない。しかし周りの人が想像してくれる感情が一人歩きすると、ときに私は本当の感情を自分で捉えることをサボってしまう。私だけのものであるはずの感情を誰かの想像に委ねてしまう。

 『星の王子さま』に出てくるキツネや王子さまが何度も繰り返す、「大事なことは目では見えない」という言葉を実感することが年を重ねるごとに増えてきた。山のような目に見えない大切なことたちの一つに、"気もち"があると思う。(ここで言う"気もち"と前に出てきた"感情"は同じ意味で使っている。『星の王子さま』の物語の柔らかさに合わせて、ここでは"気もち"という言葉を用いた。)"気もち"は目には見えないけど、存在している。私や友だちが、感情を波や雲に例えたように、誰もが感情を何かしらのイメージとして捉え、たしかにそこにあることを知っている。
 目に見えない気もちは、目に見えないままにそこに置いておくと、得体の知れない生きものが暗闇に潜んでいるようで不安になる。いつからか、目に見えない気もちをきちんと把握するため、それらを言葉に当てはめるということを学んだ。感情を表す言葉を知り、その言葉に当てはまる気もちを自分の中に見つけると、私という人間が少し分厚くなったような気がしてうれしい。言葉を知ることで手には掴めなかったけれど存在していた気持ちを、私はきちんと知ることが出来る。
 だけどその一方で、目には見えない気もちを言葉に当てはめてしまったために、ただ"感じる"という感覚が薄れてしまうのではないかと危惧することもある。例えば"悲しい"という感情。心に小さな棘が刺さったような悲しみもあれば、崖の底まで落ちてしまうような深い深い悲しみもあるが、私は感情を表す言葉をそれほどたくさんは知らない。だからそれら全てを同じ"悲しい"に当てはめてしまう。言葉に当てはめられ目の前にあるのを認識できるようになった感情の、その言葉からはみ出たオリジナルの部分はどこに行ってしまうのだろう。気もちを言葉で言い表すことが出来ると、何となく心を理解した気になり満足してしまうことも多いが、感情の全てが何かにすっぽりとおさまることはきっと無いのだと思う。目に見えない大切なものを大切にするために、形あるもの(目に見えるもの)に変えてしまうさまを自覚すると、目に見えないものを目に見えないままに大切にすることの難しさを痛感する。

 私にとって、感情は波のようである。感情はときに私だけが知っている心の中だけで小さく揺れ、ときに私の外がわに溢れ出し涙となったり、体が熱く燃えたり、ドキドキしたりする。私は私以外の誰かの感情を本当に知ることは決してできない。他の誰かも私だけの私の感情に本当の意味で触れることはできない。それでも自分だけの感情しか知らないはずの私たちは、自分ではない誰かが作った言葉を用いてそれらを言い表す。外側に見えるストーリーや形から誰かの気もちを想像し、誰かの気もちに共鳴をすることがある。感情はなんと不思議で恐ろしく、曖昧でありながら確かで、美しいものなのだろう。
 淀んだ感情の水の流し方を教えてくれたその人に、試しにそのとき心に残っていた感情を、時間をかけて説明してみたことがあった。やっぱり感情の全貌を自分ですらも捉えきることは出来なかった。それでも曖昧な感情が曖昧なままにそこにあることをだれかと一緒に認識出来て、溜まっていた感情の淀みが薄れて透明に近くなっていくような気がした。

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