見出し画像

忘れる

 最近、ヨルシカの「アルジャーノン」という曲をよく聴いている。この曲は、ダニエル・キイスの小説「アルジャーノンに花束を」からインスパイアされて作られたらしい。「アルジャーノンに花束を」は私にとっても特別な作品の一つで(というのもとても信頼している哲学者の友だちと仲良くなったきっかけが、この小説からお互いが感じた人間の孤独感や本質について話したことだった)、だから何となく色々なことを噛み締めて聴いてしまう。
 「アルジャーノン」は全ての歌詞が美しく切ないのだが、その中でも特に私の心をギュッと締めつけるフレーズがある。それは、Cメロあとのサビの「僕らはゆっくりと忘れていく とても小さく 少しずつ崩れる塔を眺めるように」という歌詞だ。
 「アルジャーノンに花束を」の主人公であるチャーリイ・ゴードンはある場面において、忘れることによって自分がそれまで得てきたものを失ってしまうという事実をひどく恐れ、悲しむ。小説の中でチャーリイの置かれている状況は、極めて特殊な設定なのだが、様々なことを忘れてしまうというのは彼に限らず人間誰しもが同じはずだ。
 例えばアルジャーノンの物語に触れているときでこそ、忘れてしまうとはなんて悲しいことなのだろうと感傷的になるのだが、普段生活している中では"忘れる"という人間の特性にいちいち浸ったりはしない。それくらいに、"忘れる"は常に私たちの隣にいる。生きているかぎり、私たちは何かを忘れつづけている。

 改めて考えてみると、忘れてしまうというのは本当に不思議な現象だ。私たちが忘れていたことに気がつくのは、思い出したときだけである。何かを思い出してはじめて、それまで忘れていた何かがあったことを知る。"思い出す"がなければ、"忘れる"を自覚することはない。"思い出す"に出会うことのなかった忘れてしまったことたちはきっとたくさんある。忘れたことすら忘れてしまったら、それは元々なかったことと同じになってしまうのだろうか。
 「なかったことと同じになってしまう」は、少し言い過ぎたかもしれない。たとえ忘れてしまうくらいに小さな出来ごとだとしてもきっと、今の私を形づくる一片になっていたり、今ここにいることに繋がったりしているはずだ。だけどやっぱり、私たちは知らず知らずのうちに多くの何かを大胆に落としつづけているのだと思うと少し悲しい。「アルジャーノン」を聴くたびに切なくなるのは、そのことにたびたび気づかされるからなのだろう。

 人間は忘れる生き物である。だから、忘れてしまうことは仕方のないことだ。忘れてしまうことは悪いことではない。けれど私たちは他人と関わりながら生きていく中で、覚えておかなければならないたくさんのことを抱えている。例えばそれは誰かとの"約束"や、守らなければならないルールや、やらなければならないことだったりする。
 「忘れものが多い」や「忘れっぽい」はよく短所として扱われる。面接では、短所を言った後には実践している対処法を言うほうが良いと昔教えてもらった。忘れてしまうことへの対処法は、「大事なことはメモをする」「携帯の機能を使って通知で教えてもらう」などが挙げられるだろうか。
 本当は、忘れてしまうことは短所でもなく、必ず対処しなければならない重大な事柄でもなく、ごく自然な現象なのだと思う。ただ世の中には忘れると困ってしまうような重要なことがたくさんあって、人間はやむを得ず"忘れる"に抗おうとしてしまうのだろう。

 上手く生きていくために忘れてはいけない重要なことの他にも、忘れたくない大切な思い出も私たちはどうにか残そうとする。それは例えば日記だったり、写真や動画だったり、人によってはもしかすると絵や音楽だったりするかもしれない。
 人間は"忘れる"そのものをコントロールする力は持っていない。"忘れないようにする"という言い方は実は少し不自然なのだと思う。私たちに出来るのは、"忘れてしまったものを思い出せるようにしておく"ことだけだ。
 ただ、"忘れてしまったもの"が、必ず"思い出す"と出会えるかどうかも本当は定かではない。思い出すためには、思い出すことを思い出さなければならないからだ。"思い出す"は、私たちが意図しないところからやってくる。

 きっと"思い出す"ためには、小さな、もしくは大きなきっかけが必要なのだろう。私たちは、忘れてはいけないものや忘れたくないことを様々な方法で残したり、記録したりするが、起こったこと全てをそのままに残すことは決して出来ない。それでも、そのようにして残したものたちはもしかすると、忘れてしまった出来ごとが"思い出す"に出会うためのきっかけになり得る。
 "忘れてしまった出来ごとたち"と、思い出すことによっていつか未来でまた出会えるかもしれない。そんなことを期待しつつ、力を抜いて忘れてしまうことを受け入れられるようになったらいいなと何となく思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?