見出し画像

好き

 あなたの好きなものは何かというあまりにも普遍的な質問に、いつからか小さな戸惑いと緊張を覚えるようになっていた。質問をされるとその瞬間に、最近観た映画や読んだ本、聴いた曲や話したことなど山のようなもの・ことたちが頭に浮かぶ。だけどそれらはどうしてだかぼんやりとしていて順番にふくらんでは小さくなって結局手の中には何も落ちてこない。どれを言おうか悩んでいるうちに、「本当に好きってなんだろう?」とその場で聞かれていることとは全く関係のないような問いが出てきて、とりあえず浮かんできた好きかもしれないもの・ことたちが遠く手の届かないところまで飛んでいってしまう。何かを好きと誰かに伝えることは、何かを好きと思うことよりも勇気がいる。

 高校生くらいの頃までは、むしろ好きを積極的に口に出すことのほうが多かった気がする。例えば、SNSのプロフィール。私の周りにいるほとんどの人がアカウントを持っていたけど、大抵の人はそこに、自分の属するところ(学校名とか)に加えて、何が好きかを書いていた。何が好きなのかを知ることで、その人の輪郭が見えてくる。私もただ、"こう見られたい"私に合わせて、好きなものを決めていたように思う。学生以外の何者でもなかった私は、この世界で唯一の私として存在できるように、好きを自分の外がわに着飾っていた。
 〇〇が好き なのではなく、〇〇が好きな私が好き なのかもしれないと気付いたとき、好きを決めることでくっきりはっきりさせてたはずの私の輪郭の線が溶かされていき、私という人間が足元から崩れ落ちてしまうようなイメージが目の前に流れた。
 絶対に変わらない自信はないし、どこまでも追いかけるほどでもないし、好きかもしれないあれこれを並べてみてもそこに一貫性はない。本当に好きなものなんてないのに、うっかり誰かに好きを伝えたら私という人間がその好きによって形づくられてしまう。一度着飾った好きを自分だけで脱ぎ着するのは簡単だけど、着ている私を知っている人の前で裸になって自分の形なさ色のなさをわざわざ曝け出すのは恥ずかしいと思った。

 友だちと電話で話していたある夜、その日に一番盛り上がったテーマは"最近なんか好きと思った曲"だった。YouTubeのURLをいくつも送りあって、それぞれの"最近なんか好きと思った曲"を聴き、相手から送られてきた曲のどこの歌詞やメロディーを相手が"なんか好き"と思ったのかお互いに当て合いっこをした。気がつけばそれだけで4時間ほど経っていた。それくらいに楽しい時間だった。
 "なんか好き"の感覚は、輪郭になるほどくっきりはっきりはしておらず、一時的であり、私のプロフィールになるほど私という人間を表す力は持ってはいない。だけど、「あ、これなんか好きかも」と思う瞬間には、心に太陽に照らされた水面のように小さくて心地の良いキラキラが生まれる。外がわに貼り付けたら風にさらされて簡単に乾いてしまいそうなその小さなキラキラは、内がわにある宝箱にしまっておきたい。なんか好きの"なんか"の部分を説明しきらないままに大事にすることが、なんか好きをこぼさずに宝箱まで運ぶコツなんじゃないかと思う。
 信頼できるかもと思う人と出会うと、なんか好きのキラキラを宝箱から取り出して見せてみようと思うことがある。なんか好きを伝えたときに、「なんか良いね」と一緒に眺めてくれたり、「私はこれがなんか好き」とその人の宝箱を開けてくれたりすると、水面のキラキラは美しく揺れてますますきらめく。だけど時々、見せた宝物を少し引いた場所で色んな方向から眺められて、評価されてしまうことがあって、そうすると宝物に傷がついてしまったような気持ちになる。好きは評価の世界から離れたところにあってほしいのに。
 傷がついてしまった宝物はもう一度眺めようと思っても、傷ばかりが目に入ってしまい手に取るたびに心が痛む。傷ついた宝物を自力で元の場所に戻せるほど、なんか好きに強さはない。なんか好きは曖昧で、曖昧だから良いのだけど、だからこそ脆くて不安定ですぐに手の中からこぼれ落ちたり壊れたりしてしまう。

 「最近はどんなことをしていますか?」よりも先に、「最近はどんなことを考えていますか?」と聞いてくれる大人や、急にかけた電話で、「特に何か用があったわけじゃないんだけどね」と前置きをすると、「うん。じゃあ今頭のなかにあることを教えて。」と返してくれる友だちがいた。
 何者かにならないと、私は透明になってしまうんじゃないかという焦燥感がときに生まれることがある。だから、自己紹介をするときに話せるような肩書きや好きなことを無理やり集めたり作ったり、この世界に存在が見えるような私を外がわからかためようとしてしまう。だけどたまにそうやって、優しいやり方によって輪郭を溶かし何者でもない私の宝箱を見つけてくれる人がいて、そうすると私の手の中に好きが存在している気がするのをその温かさで感じることがあるのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?