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空白は次の出会いを招く

久しぶりのnoteです。

捨てる、っていうのは大きくは大掃除っていう時があって、それは年末の大掃除というイメージを描きやすいと思う。
今日は11月の後半に向っているという時なので、もうすぐ12月。いつもだと大掃除のタイミングがやって来る。でも今年はそのわざわざ感が無い人も多いのではないかなって思う。
何しろ家に居るということが劇的に増えた人が多い年だったから。

いつもより大きな掃除、大きな整理整頓をわざとしているのが最近の私だ。

今年は部屋のクローゼットの観音扉の蝶番が壊れた。これが割れたので、下手をすると扉全体が倒れてくるということになる。背丈よりも高く開け閉めすることが多い場所なのでヒヤヒヤしながらいたが、早々に専門の人に修理してもらった。
こういう時も象徴的に捉えて考えるという習慣がある。
クローゼット、扉、その意味である。寝具や洋服、生活道具、普段使わないものなどを保管する場所でもあって、それは日本家屋でいうところの「押入れ」のような場所だ。
一般的な意味は周知のことと思うが、そこに自分が無自覚に何を入れていたのか、保管していたのか、という個人的なことを思い出して言語化してみよう。
それが「クローゼットの扉の蝶番交換」のその時の自分にとっての大切な意味を発見するコツだ。練習次第で上達していく。

一度荷物を全部出し切ってしまわないと修理出来ないので、修理の人が来る前にクローゼットはその日の朝早くから空っぽになった。何年ぶりなのか、がらんとしたクローゼットの中の全貌を見るのなんて、と思いつつ。その中からはもう忘れきっていたいくつかのものたちも出てくることになった。そういうものがあったということに気が付かされる。部屋が荷物で溢れかえった。

これを機会に、さようならだね、とひとつずつを手離していくことにする。ここで全部の中から何かを「減らす」ということを意識的に行う。箱の蓋を開けて中身を取り出し、残すものもその全部を空気に触れさせていく。同時に掃除もすることになる。それなりに埃は溜まっているものだ。

まとめてものを捨てるときには具合が悪くなることもある。抵抗と呼ぶ場合もあるし、シフトという境目の通過儀礼と呼ぶこともある。どちらにしても次へと向うための私にとってはメデタイことだ。そう知っていることで、頭が痛くなったり多少の吐き気や鼻水が出たとしても、慌てることも無く対応が可能になる。案の定、その症状は少しの時間で何事もなかったかのように消えていくのだ。

空っぽになったばかりのそのクローゼットにはすぐにはものを入れたりはしない。扉を全開のままにして、数時間風を通すということをする。荷物を出したままにして、お茶を飲んだり買物をしに出かける。関係無いことをしに行って時間を過ごし、その空っぽにした場の気を変えるということをするのだ。部屋の窓のすべてを開けておく。
これは実際にやってみてもらうとわかると思うのだけれど、その場に起こしていることは、リセットということなのだ。場も軽くなっていく。

そしてリセットした場所には次の「新しさ」がやって来る。
新しく空いたその場所には、やがて新しいものがやって来ることにもなるだろう。新しい自分にふさわしい新しい次のご縁のものとの出会いが日常に待っているのだ。
自分で起こせるその小さな「減らす」「捨てる」「手離す」ということから、次の「新しい出会い」を生み出すことが出来るという体験をしてしまうと、それは確かな実感になっていくので、その後もそれは自分の日常の中で続けることになるだろう。わかりやすくて簡単にできる、言うなればこれは開運方法の一つなので、オススメである。

衣類の箱を空けたなら、新しい服との出会いがやって来る。書類の整理をしたなら新しいアイデアがやって来たりする。そんなふうにイメージしてみよう。新しいものとの出会いなのだから、それはまだ見ぬ何かとの出会いだ。それが自分の元へとやって来る「可能性」という空白を積極的に作りだそう。それは魔法のようでもあるだろうし、実際にやってみることでまだ知らない何かと出会ってみてほしい。

自分の意思でそれを行うことに慣れていくほど、より小さなものから大きなものへと「手離す」のものも変化していくことをやがて体験するだろう。
さらにそれは見えるものという物質的なわかりやすいものから、精神的なことにまでそれは広がっていく可能性を持っている。
見えるものの整理と見えないものの整理と。

整理整頓、手離し上手になるほど、私たちは「終わらせ上手」にもなっていくことになり、さらにそれは次の何かを「始めること上手」にもなっていくことになる。このふたつは切っても切れないセットなのだ。
何事に対しても切れ味が良くなる。それは切り上げ上手ってこと。
そして新しいことを起こす、スタート上手ってこと。
「終わらせる力は始める力」とも言われる。

もちろん得意不得意というのはあると思うけれど、これも練習で上達していくものだ。それが可能なのだ。辞書的な言葉の意味だった「手離す」ということの実際の様々な意味をより知っていくということが必要なことだろう。

今回修理しに来てくれた人は職人のような気質の人だった。ひとつずつをぶつぶつと独り言を言いながら、扉やねじと会話しているのじゃ無いだろうかと思うような場面さえあって、興味深かった。私に確認した上で、時間をかけて丁寧に扉の高さや開き具合の微調整までしてくれていた。蝶番も壊れていたところだけでは無く全てを総入れ替え。とある方向から力が加わり続けると割れるという特徴を持つ鋳物ではなく、曲がっても折れないという鉄素材のものを選んできたと説明されてた。粘りがあるのだそうだ。そういう専門的な人が知っている話を聴くのはいつだって好きだ。
まるでそう見えていたのだが、終始嬉しそうに扉に向い、修理して途中過程のことやこの扉の持っているクセにことなど、いくつか説明もして帰っていかれた。
「また大切に使われてください。」
頭を下げそう言って帰っていった。この人にとっては蝶番の取り替えは「取り替えの作業」では無いのだなということを見せてくれた。意識を失ったままの流れ作業とは違っている。


2020年の終わりまであと1ヶ月と少し。
いつもとは少し違う気持ちで「整理整頓」や「大掃除」をしてみるのはどうだろうか。

社会に生きるということから考えると、今年は12月中旬以降からの新しい風の時代の始まりの時を目前にしている状態なので、整理整頓の意味も実は大きい。大きく時代が変わっていく、その始まりの年だと言われている。

手元も、自分のあり方も、社会の様々も、場所やこれまでの形に縛られることなくより軽くというのが今後の流れだから、その準備ということも考えていくといいかなと思う。採用して実践していくことで、より動きやすいとか、運営しやすさを実感することになるだろう。もう使うことの無いだろうものたちを手離していくのにちょうどいい。

小さなことからの練習が生きてくるのが実際なので、慣れていないという場合には、まずはほんの小さなことから練習へと向っていこう。
それがどんなに小さなことであったとしても、これは他者と比べるものでは無いので、その認識の間違いからも徐々に自由になっていくだろう。
自らが起こした行動は確かにいつかの自己の変革へと繋がっていくのだ。

それは例えば、キッチンの引き出しのひとつから。


写真と文 SANA(mizuno sanae)
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