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【プリズンライターズ】倖せの正体と死刑について思うこと

2023年12月13日の夜 山田(旧姓松井)広志(※A264「俺のクソ人生の日々」の投稿者)さんが他界された。
私は同月15日の読売新聞朝刊で知った。
処遇法第56条は社会水準の医療(治療)を義務付けているが、実情はどうだろうか!
どれだけ、痛い云々訴えても、「様子を見る」「経過観察」と称して、放置される。
広志さんにもし、適切な医療が施されていれば(癌検査)、早期発見、早期治療で亡くなることはなかっただろう。
喪心よりご冥福を祈らずにはいられない。
社会では、尿一滴で、癌になっているか否かが分かる時代だ。
血液検査でも、6ヶ月か、3ヶ月毎に実施すれば、多くの収容者が救われるに違いない。
広志さんとは約1年半文通をし、麦の会の会員になることを勧めたり、私に取って広志さんは可愛い弟のような存在だった。

 春夏秋冬、四季折々の移りゆく色彩に感銘することをいつしか忘れ去り、自分を抑制できず自暴自棄な流浪な旅を感情の暴走に身をまかせ、その結果、社会の枠組みから脱線し、幾層にも広がった波紋のなかで自分を見失い七転八倒している。
人は一日々々確実に年を取っていく。それは決して他人事ではない。
そういう私も気が付いて見ると、いつの間にか五十路、人生のターニングポイントを迎えようとしている今になって、二度と帰って来ない時間の営みの大切さに、失くした時間の大切さをひしひしと感じている。

目先の華やかさに憧れ、欲望という名の泥沼にはまり、社会から離脱した結果の服役だった。

 更生とは、心静かに自分を厳しく戒め省みることに尽きる。
人生とは、現実からの逃避ではなく、しっかりと真正面から現実を受け止めることだ。
そして、変えられないものは、受け容れること。
変えられるものを変える勇気と、変えられないものを見分ける叡智を培なうことだ。
何事も腹八分、我慢する事の大切さを(但し我慢してはならないこともある)自覚してくると、自然に視野が広がり周りの景色にさえ足が止まってしまう。
自力更生という名の終着駅。
その長いトンネルにも微かに道しるべとなる光明が射し希望さえ持てるようになってきた現在、より一層自分に課せられた課題、その項目の一つ一つを、我欲を慎み毎日しっかりと心に受け止め精進してゆきたい。

 倖せとは誰もが明るく輝かしく光に溢れ、賑やかさと華やかさに満ちたものだと思っている。
が、倖せとは、誰しもの足下にいくつも転がっているものである。
倖せの正体は見えそうで見えない。
いや、見えているはずなのに見ようとしていなかっただけなのかもしれない。
“ささやかさ”ということに気がつけば、人間は幾つもの失敗を減らすことができると思う。
しかし、それは”ささやか”ながら倖せは人生ではなく、“ささやか”だから倖せな人生なんだと思う。
一時的な感情や目先の欲望に囚われることのない強い意志を培うこと。
根の前の現実を唯、単に苦しみと捉えるのではなく、自らを成長させるための試練と受け止めることによって、人は必ず大きく飛躍できると私は信じている。
今日は2023年12月24日ですが、サユリさんや多くの方々から12/22にクリスマスカードが届いた。
広志さんともこの喜びをわかち合いたかった・・・・

  

 2018年にはオウム真理教の死刑囚の死刑を執行し、2019年には、12月27日に死刑を執行するという暴挙に出た。
私は彼らの罪を肯定はできないものの、死刑制度は断固反対の立場である。
何故なら“愛”を知ることによって人は必ず更生する可能性があると信じているからだ。
憲法第13条は、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、律法その他の国政上で最大の尊重を必要とする。」と定めている。

 死刑は、この生命に対する権利を奪うものであり、その過酷さと取り返しのつかないことにおいて他の刑罰とは質的に異なる刑罰である。
そして同36条は「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁する。」と定めている。
かけがえのない生命を奪う死刑は、いかなる方法であれ、「残虐な処罰」である。
最高裁判所は、1948年3月12日の判決で、「死刑制度が一般的に直ちに残虐な刑罰に該当するとは考えられない」、として死刑制度は合憲としたが、補足意思の中で、「国家の文化が高度に発達して正義と秩序を基調とする平和的社会が実現し、公共の福祉のための威嚇による犯罪の防止を必要と感じない時代に達したならば、死刑もまた残虐な刑罰として国民感情により否定されるにちがいない。」と判示した。
この判決が出された当時、死刑廃止国は僅か8カ国に過ぎなかった(1950年)。
しかし、それから70年以上が過ぎ、死刑を巡る国際情勢は大きく変化し、現在では、世界の3分の2以上の国(140カ国以上)が死刑を廃止、又は停止している。
”そう”まさに「国家の文化が高度に発達して正義と秩序を基調とする平和的社会が実現し、公共の福祉のために市警の威嚇による犯罪の防止を必要としない時代に達した」のである。


 現実に、今現在の死刑囚における現状は、最新の請求中でも、死刑が執行され、かつ、年末の12月27日の執行によって、死刑囚は、毎日死刑の執行という死の恐怖に支配され、言わば365(土日、祝日を除く)、いつ執行されるのかという我々の想像を絶するほどの極限状態の中にいるのである。
そもそも、死刑は生命を剥奪する刑罰であり、国家刑罰権に基づく重大かつ深刻な人権の侵害であり、フランスを始め世界の死刑廃止国の多くは世論調査の多数決を待たずに死刑の廃止に踏み切った。

  • 英国1969年(1965年に執行停止)死刑廃止 当時の死刑支持率は81%(1962年)

  • フランス1981年 死刑廃止当時の死刑支持率62%(1981年)

  • フィリピン2006年(2000年に執行停止)死刑廃止当時の死刑支持率80%(1999年)


 犯罪者といえども生命を奪うことは人権尊重の観点から許されないとの決意から死刑廃止に踏み切ったことを示すものであり、基本的人権の尊重を国の基本理念とする国家にあっては、国家の世論に基づき、死刑を存置するのではなく、死刑に反対する少数派の意見を尊重すべきである。
世論の多数が正しいと誰が決められるのか、甚だ疑問である。
死刑に代わる代替刑を行政府や我々一人々々が検討し、提唱すべきである。
英国の終身刑は一定の最低拘束期間(タリフ)を経過した後に仮釈放申請が可能となるが、タリフなしの仮釈放が事実上不可能な終身刑もある(但し、後者については2013年7月、欧州人権裁判所より欧州人権条約に違反すると判断された)。フランスの無期刑は仮釈放を許さない「保安期間」は最長で30年。

ドイツの終身刑は15年の服役により残刑の執行停止(仮釈放)があり得る。
日本の無期囚の30年(平均服役は37年6ヶ月・2022年の仮釈放8人の例で死亡した無期囚は29人だった)という服役は異常である。
フォーラム90の安田好弘弁護士や元刑務官で作家でもある坂本敏夫先生(こうせい舎理事長)等多くの心ある方々が死刑制度(死刑囚の処遇)や終身刑化している無期囚の在り方に警鐘を鳴らしている。
有期刑が30年となったからとして、無期囚の服役期間を30年という一つの審査を撤廃し、立法府が、無期囚の拘束期間の上限を一律30年とする法改正が必要だ。
30年の服役を経なりれば仮釈放の審査にかけないという通達?省令?は撤廃し、10年〜15年を目処に施設長が、地方更生保護委員会に仮釈の申請をすべきである。

2018年に死刑を執行された方の遺稿の一部を紹介したい。まずは…

早川紀代秀さんの「死刑制度とその執行について」
”死刑制度については、国民が殺生のカルマを負うので、それだけ国民のカルマが悪くなるから、辞めるべきと思います。
どうにも辞められないのなら、せめて、死刑の基準を明確にすべきと思います。
特に共犯がいる場合の基準はないに等しいと思います。
オウム事件の場合、共同共謀犯だからという理由で、自分は一人も殺していない者が死刑で、自分で二人も殺している者が無期というのは、どうみてもみても公正な裁判とは言えません。
また、「共犯」での役割や位置づけ等に多くの事実誤認がみられる事での死刑判決はどうかと思います。
さらに共同共謀犯といっても、オウム事件のような、グルと弟子という関係性の中で行われた犯行は「共謀」という概念にはなじまないものです。

 私の判決に出ている事件の動機や目的にしても、グルの動機や目的を推察したものであり、それらは、私達、弟子の犯行の動機や目的とは違います。
私達弟子は、なぜあのような犯行を命じたグルの指示に従ったのかということを語れても、なぜあのような犯行の指示を出したのかということは推測でしか語れません。これを本当に語れるのはグルであった松本死刑囚だけです。(略)“現在の心境”被害者の方々や、その遺族の方々、また何も知らなかった家族や友人、教団の方々に対する申し訳なさは、事件発覚から23年経った今も薄れることはありません。真理のため、救済のためと思って戦い、テロを実行して得られたものは苦しみと悲しみでした。真っ暗な絶望の中でなんとか正気を保てたのは、かろうじて残っていたブッダシャカムニへの信仰心のおかげでした。その信仰心により獄中で修行を始めることができました。歓喜は年々強くなり、頭頂の血まめも1cmの黒い円板になりました。でも、事件の被害者のことを思うと気が引けます。事件を起こさず、人々を苦しめることなく、このような状態が訪れていたら、どんなに良かったか・・・・・そう思います。それは可能なことだったのにと思います。(略)獄中で20数年、時間が与えられ反省し、瞑想できたことに感謝しています。家族や友人、支援者の方々にささえられて、今までこれたことに感謝します”

次に…


新實智光さんの「贖罪の思い」
「或る共犯の死刑確定者が、『人を殺すために出家したわけではない』と後悔の念を述べていました。私も同感です。」ヴァジャラヤーナの目的のために殺人を肯定することは、現在では時代遅れです。私たちの徳が無かった、霊性と知性が足りなかったためでしょう。深く反省しています。私は今回の事件以前に賞罰はありません。又逮捕後拘留されてから懲罰もありません。今も大阪拘置所の規則を順守しています。虫も殺生しないよう用心しています。もう殺生の指示をする人はいません。今は償うことだけしか頭にありません。生けとし生けるもののために私の残された生を捧げます。「死んで償う」は、確かにカルマは落ちるし、殉死、殉教ですから、超越的な「真理」に自己を犠牲に出来ます。実際、池田又作サリン事件に置いて、私は死にかけ、九死に一生を得ました。しかし、逆説的に、自己を犠牲にできるなら他者も犠牲に出来る、と非難されかねません。
生けとし生けるものとしての「私」と見た場合どんな恵人であろうが、生きて償うことの方が、試合に満ちた行為の選択です。日本の文化、空気の支配は「死んで償う」ことを強要します。しかし、伝統文化も善きものもあれば、悪きものもあります。命を軽視する文化は超えるべきものです。日本の文化も進化の途上です。これからも、進化していくと私は信じます。その未来の文化から見れば、「死んで償う」はいかがなものでしょうか?世界の潮流からしても超えるべきものだということが自ずと明らかです。私は自分の命を大切にし、他者の命を大切にすることを誓願します。私は他者であり、他者は私である。私と他者は「I」なのです。今後も事件の責任を他人に転嫁せず、その責任を真摯に受け止め、反省の日々を送る所存です。

と述べております。2018年6月7日付で書かれた原稿の一部です。
ともに前非を悔い、生きて償いたいという想いを断ち切る権利が国にあるのかと激しい憤りを感じます。

最後にフランス在住の竹下節子氏の死刑に対する考えを抜粋する。
氏は次のように述べている。

死刑のある国は「もしあなたやあなたの大切な人が殺されたら、あなたの国はあなたの代わりに殺人者に報復してあげますよ。」と言っている国だ。死刑のない国は「もしあなたやあなたの大切な人が殺人者となったとしても、あなたの国は絶対にあなたやあなたの大切な人を殺しません。」と言ってくれる国だ。私は後者の国に住みたい。親が子供に「たとえ全世界がお前に罰を与えようとしても私だけは絶対に守ってあげる」と言うような、人生のベースにおける絶対的肯定感をもらえて生きたいからだ。死刑制度とは「国家が国民の命を奪うまでの絶対権利をもっている」と言うことで、絶対主義政体のあり方の一つでもある。そこには国家が国民に、他者を殺すことを命令することも含まれる(中略)テロリストを糾弾するように死刑執行であれ、戦争であれ、国家が殺装置を制度化してきた歴史を「過ち」であると私達が認識する時代は来るのだろうか。死刑制度と決定も、宣戦布告の決定も、善悪や敵味方を分別することでなされる。けれども歴史上多くの冤罪が存在し、敵味方の組み合わせも変わっていくのは誰でも知っている。「間違い」は「罪」と同じくらい人間的なことだ。オウム真理教の実行犯となった若く優秀な研究者達の姿は、第二次世界大戦で戦犯となった若い将校達の姿と重なる。軍国主義に洗脳されて、「戦争犯罪」に法廷での裁きを回避できたにもかかわらず、過ちに気がついて死ぬまで謝罪を繰り返し、反省を深めていった人たちが存在する。オウム真理教事件の首謀者や実行犯の多くも生き方に悩んだ若者達で、当時のポストモダンが掲げた相対化の海に溺れて、「最終解脱者」を乗のる教祖に洗脳された犠牲者だった。犯行の凶悪性や反社会性はみな同じでも、その中には、その後の過ちに気がついて反省や贖罪の実践を真摯に模索していた人も痛そうだ。教祖だった人物でさえ、「悪人」として生まれたのではない。家族愛に恵まれず、視覚障害者の全寮制学校で、弱視であるという相対的な力をはっきしてきた生い立ちの中で自己肥大の妄想を育てていった。「力で人に優先して支配する」誘惑は、どんな状況でも存在する。個々の過ちの前と後の生き方を判断せずに善と悪を仕分けて死を与える罰を宣告するなど、果たして可能なのだろうか。「間違うことは人間的であり、自分の間違いに固執することは悪魔的である」と言ったのは「回心」に至るまで重ねた罪を後悔し告白したアウグスティヌスだ。「魔が差した」という言葉は日本にもあるが、アウグスティヌスは、間違うことは自体は悪の巣ではなく、人間性の一部だというのだ。私たちは誰でも、迷い、間違い、騙され、判断を誤り、善悪の観念を失うこともある。社会に衝撃を与えた「凶悪犯罪」は「組織」として断罪されるので個々の加害者のその後は問われることがない。自分の間違いを認めた人間に、その間違いの「裁き」を固執するのが悪魔的でないと誰が言えるのだろうか。「よれよれなって足を引きずりながら正しい道を歩く方が、意気揚々と間違った道を歩くよりもいい」というアウグスティヌスのもう一つの言葉が聞こえてくる。・・・・と。

私は不当な公権力の行使に躓いて生きるくらいなら立ち上がって死にたい。
正しいことは正しいと声を挙げた広志さんを敬服している。
死刑の執行がないことを念じながらペンを揇きたい。

2023年12月24日 小倉のだっくん


A347さんの投稿


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