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【プリズンライターズ】冤罪受刑ライフ!!

※ こちらの投稿に関しては実名で投稿を掲載させていただきます。実名公開については、ほんにかえるプロジェクト事務局長の汪楠による『「冤罪受刑ライフ!!」の編集掲載について』をお読みください。

はじめまして。滋賀・堺監禁殺人事件という冤罪で実刑30年となり、大分刑務所で受刑中の井坪政(いつぼしょう)と申します。

 平成29年11月16日の昼、堺市内の自宅に滋賀県警の刑事が20人位やって来て、突然「大麻の件でガサ入れする」と言って、家の中1F~4Fまであちこちひっくり返されましたが、僕は大麻どころかタバコすら嫌いで、身に覚えはなく、当然何も出て来ません。

 すると、突然刑事に「1年前の傷害事件で逮捕する」と言われ、滋賀県警に連行されましたが、身に覚えなく(すぐ帰れるわ)と思ってました。これが昼の13時位で、そのまま食事も水も与えられず、翌朝4時まで、尿検査や取調べ。傷害事件と言いながら同年8月に肺炎で亡くなった、1才年上の男の友人W の名前を出して「お前が殺したんや」等と怒鳴り、ペンを投げる、机を叩く蹴る。手錠を痕が残る位締め付ける。等々、酷い扱いを受けました。(今思うと、障害での逮捕なら録音録画が残らない、実に卑怯な手です)

 弁護士のアドバイスもあり、黙秘し続けました。22日後には当たり前の通り不起訴になり。帰れるわ、と思っていると、刑事に「殺人で再逮捕する」と言われ、頭が真っ白になりました。内容は「僕がH28年8月~H29年8月までの1年間、友人のW(1才年上の男)を監禁し、食事も与えず、死に至らしめた。」というものです。

 実際は、Wが「親と喧嘩したから泊めて」とボストンバッグを持って来たので、同居しただけです。1年の同居期間中は、僕がオーナーをしていた飲食店(粉もん政)のイベント出店や、旅行等、僕の奢りで一緒に、日本中あちこち行きました。

 僕のスマホの中に、Wとの旅行等の沢山の写真(食事中も含む)がありました。(刑事にスマホを押収されており、1審で証拠として提出できませんでした)

 抑(そもそも)、監禁の定義は「人を一定の区画に閉じ込め、そこから出る自由を奪う事」となっています。Wは、一緒に日本中旅行してるのに、監禁な訳がありません。

 更に、検察側の「医師の鑑定書」「解剖調書」「検死調書」他等でも、誤嚥性肺炎と腎不全と肝不全による「多臓器不全」で亡くなったとあり、僕は公判で無実が証明されると思っていました。

 そして僕の公判の審問で(マスコミがいっぱい居る前で)検察に、「元々病死である事、検察側の医師の鑑定書や解剖、検死等々でも、全員が病死と認めてる事」を詰めました。すると検察は求刑の時にいきなり、自分達に不利な「鑑定書」「解剖調書」「検死調書」「CT検査」「血液検査」他等、何個もの証拠の提出を取り辞めたのです。

 弁護士は、検察が出すと(公判前手続きでも言っていたので)用意してなかったので、いきなりどうする事も出来ず、結局公判には出せず。無い物とされ有罪になり、懲役30年です。

 (実は、冤罪で逮捕、受刑後約16年の令和2年3月31日再審無罪判決となった)Nさんと同じ滋賀県警と検察で、全く同じ、病死を殺人事件にでっち上げの手口で。Nさんの再審では、刑事が隠していた「医師の鑑定書」が証拠となった事から、もしかしたら僕も、まだ他の鑑定書が隠されているかもと思い控訴し、控訴の弁護士にかなり動いてもらうと、別医師2名の鑑定書等が出て来たのです。何とその2名の医師が別々に作成した鑑定書も、検察が求刑で提出を取り辞めた物と全く同じ病死を証明する内容でした。

又、押収されていたスマホも取り戻した事から、「旅行時等の大量の写真」と「医師3名の別々の鑑定書」「CT」「血液検査」「検死調書」「解剖調書」他等々を証拠として提出しました。しかし、公判で検察は不同意、裁判官は不採用の出来レース。 

 この時僕は「日本の司法は腐ってる。正義はない。」と実感しました。「絶対に無実を証明してやる」と心に誓い上告しました。そして、自分でも納得出来るだけの証拠と判例を入れた、上告趣意書(47枚)を作成しました。

 しかし、「再審事由である」として棄却されました。その後ダメ元で「異議申立」をしましたが棄却。そして令和2年9月24日(木)に、僕の「冤罪受刑ライフ」がスタートしました。

 翌日、分類の為、大阪刑務所(以下「大刑」)へ移送され、その後令和2年12月18日(金)、大刑から同行職員4人と飛行機ANAで伊丹空港から大分空港へ。(4人の職員は車でも機内でも爆睡しており、ドリンクサービスが受けられた。笑)大分空港では更に大分刑務所の職員1人も合流して、大分刑務所に着。

 大分刑ではコロナ禍に県外から来た、という事で何年も使われてない埃だらけの雑居(12畳+α)に1人で隔離されました。(2週間で良いところ、年末年始を挟んだため、1月5日まで隔離)掃除には4日もかかり、広い雑居に1人は超寒かった。

 令和3年1月5日に考査工場(注1)に行き、初日から行動訓練(注2)が良いからと(何も分からないのに)副基準をさせられ、1週間後には基準をさせられ、そして20日に、幹部が何人も居る「処遇審査会」があり。金線(注3)から『今回の事件の事どう考えてる?』と言われたので『やってないので冤罪です。』と言うと、金線に『冤罪を訴えるなら、反省してないという事で仮釈はないぞ』と言われました。(冤罪を訴えていても、仮釈で出た人は何人も居る。)

 僕は『仮釈は考えてません』と言いました。正直、やってない事で刑務所に居るのはメンタルが辛いですが、やってない事をやったと言って出る位なら、冤罪で30年受刑したろやないかい。と思ってます。「しかし、1番は再審をして、雪冤し、出所するのが1番の目的です。」

 そして1/21(木)今の洋裁工場に配役になりました。作業ズボンやマスクをミシンで作っております。(詳しくは又)

 この投稿を見て下さった方、僕の再審に、力を貸して下さい。僕は無実です。又、寄付もお願いします。助けて下さい。どうかお願いします。


注1・考査工場:新入訓練工場。刑務所内の規律を学んだり、行動訓練などを行う。

注2・行動訓練:軍隊式の行進や、一糸乱れぬ一時停止、その場での足踏み、転回、直立不動での点呼、バラバラの状態からの整列など。(前田恒彦 ノート170「地獄の行動訓練」より)

注3・金線:課長級以上の刑務官 (注 1・3 / Amebaブログ「刑務所体験記&更生道」から引用しました)

【PRISON WRITERS】投稿へのサポートに関して/ 心が動いた投稿にサポートして頂けると有り難いです。お預かりしたお金は受刑者本人に届けます。受刑者は、工場作業で受け取る僅かな報奨金の1/2を日用品の購入に充てています。衣食住が保障されているとはいえ、大変励みになります。