呼ばれるひと
幽霊なんていない。
多くの人がそう言う。そんなものは気のせいだ、錯覚だ、幻想だ、と。
私もそう思っていた。
あんなことに遭うまでは。
大学時代、私は1歳年上のハルという女性と特に仲が良かった。
彼女は金髪のバンギャで、耳や顔にいくつもピアスを開けている上にパンクなメイク。すらっとした長身から伸びる細い四肢と目の下の隈がどこか狂気を感じさせて、ぱっと見ただけだとかなり近寄りがたい印象だったと思う。
そんな彼女と出会ったのは、私が大学1年生だったころの夏。バイト帰りに夜の繁華街を1人で歩いていると、いきなりハルが肩を組んできたのだ。
何かと慌てていると、ハルは「後ろ、男2人につけられてる」と耳打ちしてさっさとタクシーを捕まえた。そのまま流れで2人で乗り込み、私が自分の下宿先の住所を聞いたハルの言葉は「そのマンション、あたしの住んでるとこの隣」だった。
あまりに自然な流れで家を行き来するようになったせいか、どうやって仲良くなっていったのか定かでない。
「なあ、幽霊っていると思う?」
いつものように私がハルの家に泊まった夜、ハルはベッドに寝転がりながらおもむろに尋ねてきた。
「いないんじゃあないの。いるほうがおもしろいけど。何、急にそんな話」
私もベッドに腰掛けて、ハルに視線を向ける。ハルはスマホに視線を向けて、ため息混じりに言った。
「昨日さあ、シバと神社観光して来たんやけど、帰るときに変なもん見ちゃって…なんなんだろって」
「なに、ハル霊感あんの?」
「…ちょっとだけね」
シバとはハルの2歳年下の彼氏のことだ。小麦色の肌にくりくりとした目で言動が柴犬みたいだから、そう呼んでいる。
「シバにその話した?」
「したけど…『おれも見たいから明日確かめに行こ!』って…」
ちょっと天然というか、抜けているところもある彼だから、そう言っている場面は想像に難くない。シバが目を輝かせながら尻尾をぶんぶん振っている幻想が見える。
「てか、その”変なの”って何だったの?」
私がシバの幻想をかき消しながら呆れ気味に聞くと、表現する言葉が思いつかないのかハルは険しい表情を浮かべた。
「うーん、なんていうか…人の影っぽかったんだけど、なんかモヤモヤ?してて…見た瞬間ぶわって一気に鳥肌が立って…そんな感じ」
「いや、全然わからん」
「マジで見たんだって!」
「そんなに怖いんだったら、明日行くの止めといたら?」
「…明日のテンションで決めるわ。あたしも気にはなるし」
「ふーん。でもまあ、気をつけてな」
そう言って、私は部屋の明かりを消して、ハルの横に寝転がって目を閉じた。まぶたの向こうに、スマホの画面の光がぼんやり見える。
ハルは結局遅くまで眠れなかったようだった。
翌日。
お昼前に講義のあった私は、ハルよりひと足早く家を出た。私はハルとは別の大学だったので、少し早めに出なくては遅刻してしまう。
大学に着いて講義を受け、空きコマに学食へ行き遅めの昼食。
今日は夜バイトもないし、帰ってゆっくりするか。ハル呼んでうちでごはんでもいいし。そう思ってスマホを見てみると、ハルからメッセージが来ていた。
『今から昨日の神社行ってくる』
結局行くのか…。まあ、確かめてみて気のせいだったってわかればハルも安心するでしょ。
私は少し呆れながらも、メッセージを返信しておいた。
『帰ったら3人でごはんでも行こ。気をつけてね』
* * * * *
数時間が経ち、とっぷりと日も暮れて外は群青に沈んでいた。帰宅した私はスマホを何度も確認する。
ハルからはまだ連絡は来ない。
まだ帰ってきていないのだろうか…。いや、いくらその神社が遠くにあるといっても、1時間もあれば帰ってこれる場所だ。まさか、何かあったとか?
いやいや、考えすぎか。悪い想像しすぎ。
頭を振って考えを振り払う。そのとき、
『♪♪♪』
着信音が鳴り響いた。慌ててスマホを掴んで画面を見ると、「ハル」と表示されている。私はすぐに電話に出た。
「ハル?どうした?」
「ザザ…ヤバイ、かも…(ガヤガヤ)…ア”ー…ねえ…ア”ア”ア”」
「え、ちょ、なに?周りがうるさくて全然聞こえない!」
スマホから聞こえてくるのは、ひどいノイズ音とたくさんの人が喋っているような声。地下鉄にでもいるのか?
私は片耳を押さえて、もう一度ハルに呼びかける。
「ハル、今どこ? 大丈夫なん?」
「ウウ…H駅…ア”ア”ア”…シバが!…ザザザ…」
かすかに聞こえるか細いハルの声から、尋常でない状況であることだけはわかる。
私はすぐに家を飛び出した。とにかくハルたちのところへ行かなくては…!
「すぐ行く!すぐ行くからそれまでじっとしてて!」
「ザザ…ザザザ…ア”………許さない」
その言葉だけが、いやにはっきり耳に残る。
そこで電話はぶつりと切れてしまった。
全身が総毛立つのがわかる。なんだ今のは。
明らかにハルの声ではなかったし、もちろんシバの声とも違う。ザリザリとした耳障りな質感の声だった。
ともあれ、今はハルたちのもとに急ごう。
私は最寄り駅に走り、ちょうど来た電車に飛び乗った。何が起きているのかは分からないけれど、どうか、どうか間に合ってくれ。それだけを一心に願っていた。
駅を降りたとき、再び着信があった。ハルからだ。
「ハル!駅着いたよ!どこにいるの?」
「…HI通り…ザザ…」
相変わらずノイズ音がしている。私は駅の階段を駆け上がりながら、かすかに聞こえる声を逃すまいと耳をそばだてた。
「ザザザ…西…ザ…」
聞こえてくる言葉から考えるに、だいたいの場所はわかった。地上へ上がってすぐにそちらへと走った。
通りに着いてすぐ、ハルとシバは見つかった。シバはほとんど倒れるようにして道路にうずくまっている。周りには人っ子一人いない。ハルがシバの背をなでながら呼びかけているようだ。
「ハルーッ!」
私は息を切らせて駆け寄った。向こうも気づいたようで、顔を上げる。頬を涙がいくつも伝って、メイクもぐしゃぐしゃだ。
「シバが、シバがヤバイの…!」
うずくまっているシバをしゃがんで見てみると、ひどく吐いた様子で真っ青な顔をしている。呼吸も苦しそうだ。
「酒飲んだわけでもないのに、こうなっちゃって…なんとかここまでは帰ってきたけど、もう全然動かなくて…!」
「マジか…シバ!ねえ!大丈夫?!」
「……ウ……ア”…」
こちらの声が聞こえていないのか、口を開けたまま虚ろな目をしている。こうしていても私たちでは埒が明かない。
「救急車呼ぶわ」
私がスマホを取り出すと、ハルが急に私の手を掴んだ。
「ちょ、何すんの」
「…許さない」
さっきの電話で聞いたあの声だ。ハルの口から発せられているが、絶対にハルの声ではないし、こんなふざけたことをするような人間でもない。
ぐしゃぐしゃに崩れたメイクの奥に、虚ろな目。明らかにハルの目ではない。その目からとめどなく涙が溢れてくる。
全く別の誰かになってしまっている。直感的にそう感じた。
「…釘を……許さない…」
ザリザリとした声でそう言っているのがかろうじて聞き取れた。ハルとシバは例の神社で何かしてしまったのだろうか。それでこの何者かは怒っている…?
信じられないほどの強さで腕を掴んでくるので、救急車を呼ぶのは一旦諦めてシバの腕を引っ張り上げて無理やり担ぐ。ぐったりとはしているが、なんとか歩けるようだ。
私は右手をハルに掴ませ、左肩でシバを支え引きずりながら通りを進む。せめてシバに水を飲ませてやりたい。
ほんの少し道を進んだところで、右手側に神社が見えた。入り口のところに湧き水の囲いがある。コンビニに行くより近い。2人を引きずりながら、なんとか神社へ入った。
手水というわけではなく、飲み水のようだ。すぐ横のベンチにシバを寝かせる。
掴んでいるハルの手ごと湧き水に右手をつける。はっとするほど冷たい。冷たさに驚いたのか、ハルはぱっと手を離した。骨まで冷えるような水をひと掬いして、シバの口に流し込む。
「う、げほっげほっ!うう…げほっ」
最初は吐き出してしまっていたが、何度か繰り返すうちに、こくんと喉を上下させて水を飲んだ。ふーっと息を吐くのを見ると、少し落ち着いたようだ。呼吸も穏やかで、顔色もいくらか良くなっている。
私もひと心地ついて改めて辺りを見回すと、ここが有名なS神社であることに気づいた。境内の間の細い道の向こうに本殿が見える。そうか、ここがあの…。
ハルに目を遣ると、未だ涙を流しながら横たわるシバを睨みつけている。
私ではどうしようもできない。ただの気休めにしかならないかもしれないけれど、S様にお願いしてみよう。
「ハル、S様にお礼を言いに行こう」
「ウウウウ…」
唸るハルの手を引いて境内を進み、細い通りをまたいで鳥居をくぐった。清浄な空気を感じる。参道をまっすぐ歩いて、本殿の前へ。
2礼の後、拍手を2回。
藁にも縋る思いで、私は祈った。
S様、ここへ連れてきてくださり、ありがとうございます。どうか、ハルを助けてください。シバを許してやってください。
そのとき、背中からふわっと風が吹いた。風は見定めるようにくるりと私の周りを回る。私は目を閉じ、もう一度願った。
どうか、お助けください…!
ドサ、と隣で音がした。
目を開けてそちらを見ると、ハルが倒れている。慌ててハルを抱きかかえたとき、私の視界がぐらりと揺れた。
* * * * *
ガッ…ガッ…
重たい音をさせながら、何度も金槌を振り下ろす。
憎い…あのひとが憎い…っ!
目の前にはぼんやりと写真が見える。木に写真を押さえつけ、その上から釘を何度も打っているらしい。
ガッ…ガッ…
許せない…許さない…!
深々と木の幹に突き刺さった釘と、よれて破れてしまっている写真を涙ながらに見ている。だんだん写真が崩れ、釘だけが残った。その釘すら憎い。睨み続けていれば、あのひとにこの思いが届くような気がする。
後ろのほうから声が聞こえてきた。
『あ、ここ釘刺さってるやん!』
『やめときって!触らんとき!』
『大丈夫やって!…っしょ!』
後ろから若い男の手が伸びる。
やめろ。それに触るな。台無しになる。やめろ。
男の手は釘を握ってぐっと力を込め、何度も揺さぶる。釘の周りの木が段々と綻びてくる。
やめろ。触るな!抜くな!じゃないと、じゃないとあのひとに…
『ん〜っ、うわっ!』
男が足を滑らせたのか、手が下へずり下がっていく。釘も一緒に地面へと落ちていった。
ああ、ああ…あんなに呪ってやったのに…これで、もう…許せない…
許せない許せない許せない許せない
許さない
* * * * *
たぶん、一瞬のことだった。
おぼろげな景色とはっきりとした憎悪とが、私のなかを通り過ぎていった感覚。それらに圧倒されて、声も出なかった。
嘔吐したあとのような倦怠感を感じつつ、ハルのほうを見遣る。脱力して座り込んでいるが、意識はあるらしい。
「ハル、大丈夫?」
「…‥‥…」
こちらをしっかりと見て、こくん、とかすかに頷いた。よかった。あの虚ろな何者かではないようだ。
ハルの手をとって再び鳥居をくぐり、シバのところへ戻った。シバもだいぶ回復したらしく、立ち上がっている。ハルをふたりで抱えるようにして、私たちはS神社をあとにした。
ハルの部屋に戻ると、ハルもシバも落ち着いたようで事の顛末をぽつりぽつりと話してくれたが、S神社で見たあの幻影の通りだった。
例の神社に行ってハルが人影をみかけ、それをシバが追いかけた先で木に刺さった釘を見つけたという。釘を抜こうとしているうちに足を滑らせて、そのまま釘をどこかになくしてしまったらしい。しばらくふたりで探したものの、見つからないので諦めてその場をあとにした。
その後からだんだんとシバが吐き気を訴えるようになり、駅についた頃にはほとんど意識混濁の状態になってしまった…というわけだった。
「電話来たときマジで焦ったわ。」
私が少し呆れた口調でひやかすと、ハルもシバも苦笑いを浮かべながら頭を下げた。
「すぐ来てくれてほんと助かったわ、ありがとうね。」
「でもよくオレらがいるとこわかったね。」
感心したようにシバが言う。
「え? だって電話で教えてくれたやん。てか今思ったら、あのとき周りのひとらに普通に助け求めれば良かったんちゃう?」
私が笑ってそう返すと、ハルとシバが顔を見合わせた。訝しげな彼らの表情に、不穏な気配が漂う。
「…電話したとき、あたしら駅出て通りにいたけど、周り誰もおらんかったで。そやから電話してん。」
「え…でも、周りめっちゃガヤガヤしてたやん。人がたくさんいてる感じで、うるさくて……」
シバが顔面蒼白で首を横に振る。
「3回ともそうやったん?」
私がそう尋ねると、ハルはさらに眉を顰めた。
「…1回しか電話かけてへんよ。」
そう言いつつスマホで通話履歴を見せてくる。確かに、私への発信は1度だけ。私も慌ててスマホの履歴を見てみると、ハルからの着信は2回残っていた。テーブルに置かれた2つのスマホが、私達の困惑しきった顔を照らす。
これは、一体何なのか。私が聞いたあの雑踏の声は、あのノイズは、居場所を知らせる声は、一体…。
いくら考えても、誰も答えを出せなかった。
後日、ハルとシバはS神社にお礼参りに行ったそうだ。
もうこんなことはないように…そう思ってはいても、こうした不可解な事象はこの先も続く。
幽霊や怪奇現象なんて、錯覚、幻想。
そうかもしれない。
けれど、私たちはまたそうしたものたちに出会うことになる。
その出会いは、" 呼ばれている " という感覚に近い。
呼ばれるまま、誘われるまま、私たちはまた邂逅するのだろう。
こわいおもいでに。