二度と行けない神社
暑い夏の日だった。
私が9歳だったあの夏、人生で一番不思議な出来事に出会った。
誰にも信じてもらえない話だけれど、間違いなく本当にあった出来事。
あの夏、私は神様に出逢った。
* * * * * *
夏休みの自由を持て余していた9歳の私は、当時祖母の家に住んでいた。祖母の家は山のすぐ近くで、田舎だったこともあって遊び場と言えば山か海しかない。でも、私は山も海も大好きでよく遊びに行っていた。
子どもも少なく、ひとりで山や海に遊びに行くことも珍しいことではなかった。近くの山や浜は、まさに勝手知ったる庭だった。
お昼を食べた私は、祖母のつけたワイドショーをぼんやり眺めていた。
『奥さん、そりゃあはっきり言わなきゃダメですよ』
みのもんたがやっていた、生放送中に電話で視聴者の相談にのるというコーナー。子どもの私には退屈で、すぐに外に遊びに出ることにした。
「おばあちゃん、遊びにいってくるわ」
「はいよ、いってらっしゃい。あとでお買い物出るから、裏の戸からお入りよ。晩御飯、おそうめんにしよかね」
「やった!いってきまーす!」
暑さを物ともせず、私は家を飛び出していった。
今日はどこで遊ぼう?海に貝殻を取りに行く?それとも山にどんぐりを集めにいく?
わくわくしながら歩く私は、山道の入口の前で止まった。山に遊びに行くときは、いつもここから登っていく。木々が落とす陰と、さわさわと揺れる葉の音が涼し気な様子で、私は誘われるように山道のほうへと足を進めた。
この山道から登ると、小さいながらも山を二つ越え、最後は岬に辿り着く。子どもの足で、片道およそ1時間半。山をひとつ越えたところにある広場には二つ目の山道への入口があり、そこからはゆるやかな道が続く。ちょっとした冒険には程よい険しさだ。
額に汗を浮かべながら、私は山をひとり歩いた。歌を歌いながら、大きな枝を剣に見立てて振り回して、花の蜜を吸って、それだけで不思議と楽しいものだった。
やがて山をひとつ越え、広場に着いた。
この広場には土俵があり、昔は神事として神楽や相撲を行っていたという。道路のほうから山道まで鳥居が立ち並び、この広場まで続いている。
だが、この広場には神社どころかお社さえない。昔はあったのか、もとからないのか、私には知る由もなかった。
ひとりでこの場所に来るのが好きだった。木々に囲まれていて、空気が澄んでいるような心地よい空間で思いっきり深呼吸すると、体の隅々まで満たされるような気分になれたのだ。
服が汚れるのも厭わず、私は広場に寝転んだ。柔らかい土と青々と茂る草の感触を背中に感じながら、目を閉じて息を吸い込む。夏の暑さなど嘘のようにひんやりとした空気が、全身に行き渡った。しばらく葉の揺れる音や鳥の声、木々の落とす陰を感じていた。
すると、不意に周囲が明るくなったように感じた。目を開けてみると、森全体がほんのり緑色に輝いているように見える。
ずっと目を閉じていたから、変になってしまったんだろうか?
何度か目をこすっても、変わらず周囲は緑の光に包まれていたので、私はもう諦めて広場の中心にある土俵のほうへ向かった。
土俵にスポットライトが差しているかのように、そこだけやけに明るい。私は土俵のふちに立って上を見上げた。木々の隙間と雲の切れ間が重なり、そこから日の光が降ってきている。
そおっと土俵に足を踏み入れ、真ん中に立ってみると、なんだか特別な舞台に立っている気分になって、私は思いつくままに歌い踊った。お祭りで見聞きしたうろ覚えの舞踊と歌。
それを繰り返していると、不意に風が私を取り巻いた。
風の吹いていくほうへ、私は連れられるように歩いていく。
森の奥へ進むほど、緑の光はどんどん増えた。小さい玉のようなものが蛍のようにふわふわと浮いていて、本当にきれいな光景だった。こういうのを「美しい」と言うのだと、今でも思う。
来たこともないほどの森の奥に来ると、さきほどの広場より一回り小さい広場が現れた。学校の教室くらいだろうか。それくらいの広さだった。その奥に、こじんまりとしたお社があった。
その横に、天女のようにゆったりとした白い服を着て、髪の長いひとがたたずんでいる。切れ長の瞳で微笑んでいて、彼女から慈しみが溢れ出ているようだった。
彼女の前まで来て、私は無意識に膝をついて頭を下げた。畏敬という感情を初めて味わったのはこのときだ。
彼女は触れるか触れないかくらいの力で、私の頭を撫でる。その手があたたかくて心地良い。やがて彼女は私の前に手を差し出し、私は緊張しながらその手を取った。
ふたりで手をつなぎながら、特に何も話すことなく広場でくるくると踊った。どこからか鈴の音が聞こえ、緑の光の玉が周りに漂い、ふたりで笑ながら踊るのがこの上なく楽しくて、時間が止まっているような感覚だった。
ひとしきり踊ったあと、彼女は私の手をひいてお社の裏へ連れて行った。森の奥深くまで来てしまったと思ったのに、そこには山道の出口の見慣れた岬が見えた。
なんだ、こんな近道があったんだ。新たな発見に、私は心躍った。この道を通れば、またこのひとに会える。
彼女に促され、私は森を抜け岬に出た。大きさが疎らな砂利に足を取られながら浜まで進む。打ち寄せる穏やかな波。潮のかおり。目印の灯台。間違いなく、いつも遊んでいる岬だ。
彼女のほうを振り返る。森の奥から、私を見て微笑んでいる彼女は、ゆったりとした動きで手を振った。
ああ、きっともうお会いできない…。
一言も交わさなかったけれど、なぜか確信めいた思いが私のなかに浮かぶ。彼女はだんだんと森の奥に消えて、やがて見えなくなった。
たまらなく寂しくなって、私はつい彼女の消えた場所を覗き込んだ。でも、そこにはお社どころか獣道すらなく、ただ木々が生い茂っているだけ。やはりもうお会いできないのだな…と、私はしょんぼりしながら今度は山道を通らずに祖母の家に戻った。
そういえばおばあちゃん買い物にでてるから裏の戸から入らなくちゃ。
そう思いだした私は、裏口へ向かった。出かけるときにはいつも鍵を裏口に隠してあって、勝手口から入るのだ。
だがいつもの鍵の置き場所を見てみると、鍵がない。というか、勝手口が開いていてテレビの音が聞こえる。なーんだ、まだ買い物出てなかったのか。
私は勝手口から家に上がって、祖母に声をかける。
「おばあちゃん、ただいまー」
「あら、いつの間に外いっとったん?」
「え?」
テレビを見ると、そこにはみのもんたが難しい顔をしている。そしてこう言った。
『奥さん、そりゃあはっきり言わなきゃダメですよ』
私は混乱した。このセリフは出かける前に聞いたものだ。時計を見ると、針が指しているのは家を出たときと同じ時間。
ありえない。帰りは道路を通ってきたとは言え、行きは少なくとも山をひとつ越えているのだ。こんな一瞬で、(むしろ時間をさかのぼって)戻ってくるなんてできるはずがない。
「どうする?おうちおる?おばあちゃん、今からお買い物行こうかと思ってね。出かけるんやったら裏に鍵置いとくよ」
「…ばんごはん、おそうめん?」
「そやけど、ようわかったね」
信じられないけど、私は時間をさかのぼって戻ってきたのだ。
それに気づいた瞬間、私は祖母に今体験してきたことを怒涛の勢いで話した。かなり困惑していたが、祖母は私の作り話だと思ったようで、うんうんと頷くものの、真剣には取り合ってくれなかった。たしかに、突拍子もない話ではある。自分で体験していなければ、今の私が聞いたとしても決して信じないだろう。
それでも、あの出来事を嘘にしたくなかった。
祖母が止めるのも聞かず、私は再び山道へ走った。あの入口から登り、全力疾走で山を越えた。
そして、あの土俵がある広場に戻ってきた。肩を上下させて、のどの奥に焼けるような感覚を味わいながら、あたりを見まわす。
先ほどのような緑の光など、どこにも見られない。お社へ続く道があったところはただの森で、その奥に道があるような気配もなかった。土俵へもどってあのときのように踊ってみるが、緑の光の玉は現れないし鈴の音もしない。
…きっと、あのときだけが特別だったんだ
お社があったほうを見ると、山の向こうに太陽が沈みかけていた。「もうお帰り」と言われているような気がして、私は一礼したあと広場を後にした。いくつも鳥居をぬけて道路に出るまで、一度も振り返らずに。
祖母の家に戻るころには、夕日も沈もうかという頃になっていた。
仕事から帰った母が、ちょうど私を探しに出るところに鉢合わせてしまって、こっぴどく怒られた。
「ひとりでこんな時間までふらふらして、何考えてんの!!」
「いや、だって…その…」
「もうひとりで山行くの禁止やからね!!」
「はい…ごめんなさい……」
母の剣幕に押され、山での出来事は話さなかった。(話したところで信じたとは思えないけれど)それでも、幼い私の記憶に強烈に残る思い出になった。
* * * * * * * *
彼女を神様だと思っているけれど、本当のところはわからない。
幽霊だったのかもしれないし、人間だったのかもしれないし、私の想像が生み出したものかもしれない。
そもそもあの体験だって、本当だと裏付けるものなど何ひとつない。
でも、この思い出はいつか書き残しておかなくてはと思い続けていた。
あの日彼女に出会ったあのときから、この思い出を書くのを確信していたような気もする。うまく説明できない。
勝手な想像だけれど、あの神社は龍脈・龍穴にまつわる何かなのでは…と思っている。これも何の根拠もない。
ただ、先日訪れた貴船神社の奥宮と、今回書いた思い出の神社が、あまりにも似ていた。貴船神社の奥宮は、龍穴を御守りしているから、そうかもしれないと思っただけのこと。
ちょうどこんな感じで、彼女がいたあの空間だけスポットライトに照らされたようになっていた。貴船神社の奥宮を訪れてから、どうしてもこの思い出を残しておきたい気持ちが強くなったのだ。
誰も信じなくてもいい。ただの物語として楽しんでもらえたら、それで十分。
あの夏、私は神様に出逢った。
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