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アメリカ同時多発テロ事件 - 9.11から22年

その日は「秋晴れ」ともいうべき快晴の日だった。
アメリカではよく見られる、雲ひとつない青空。
これから起きる、世界を揺るがせた悲惨な事件とは一番遠いところにあるような、そんな完璧に晴れた日だった。
あれから22年。この日には、毎年同じような快晴の日が訪れる。
世界を変えたとも言うべき事件をニュースで知る前の爽やかないつもの朝。

私は前年の12月に夫とともにアメリカに移り住み、最初のアパートが見つかるまで夫の実家に居候していた。年明けから一念発起して花の学校に通い、春から運よく地元の花屋さんに拾ってもらい、パートの仕事を始めていた。その日はたまたま休みの日だった。

午前9時頃、寝室のテレビでニュースを観ていた義父が、
「ニューヨークでテロがあった」と、ただ事ではない様子で言いに来た。
テレビをつけると、ツインタワーの頂上から黒い煙がもくもくと上がっていた。飛行機がまるごとビルに突っ込むという前代未聞のテロ行為。
まるで映画のワンシーンを観ているようで実感がなかった。

その後の状況はニュースでもご覧になった方々もたくさんいらっしゃると思うので、私はアメリカのボストンで生活している者としてその後の日常をどのように過ごしていたかをここに記録として綴っておきたい。

1.ボストン発の便だった
ツインタワーに突っ込んだ2機はいずれもボストン発の便だった。
夫は水質管理関連の仕事をしているので、ボートでボストン湾に繰り出すこともあり、その日も朝からボストン湾沖で作業をしていた。空港が近くにあるので、時間的に、その2機が離陸して空を飛んでいるのを見たかもしれないと言う。

ニューヨークにいる知り合いは全員無事だった。でも、ボストンでもニューヨークでも、様々な影響が出始めた。

2.空から飛行機が消えた
事件後しばらくの間、街はひっそりと静まり返っていた。
誰もがテレビの画面にくぎ付けになっていたのもあるし、「アメリカの建国と自由の象徴」であるボストンが次の標的になるかもという恐怖で、外出を控えた人が多かったというのもある。
まるで世紀末に人類が死に果てた世界のようだった。

また、空の便も全く消えた。
飛行機が飛んでいる時はさして気にも留めていなかったが、あの独特のエンジン音が遠くに聞こえるというのは日常の一部だということが初めてわかった。
今まで空輸されていたものがすべてストップしたのは、日常の生活にも不便をもたらした。
花市場では、普段はオランダをはじめ世界中から届く花の入荷がストップした。花屋のキーパー(冷蔵庫)がみるみる空になっていく様を見るのは辛かった。
ボストンという土地柄、留学や研究で滞在している日本人の研究者や医者の人たちは、実験に使うネズミが届かなくなったと言っていた。
ボストン在住の日本人コミュニティにも事件は影響をもたらした。
その当時、コミュニケーションに役立っていたオンラインの掲示板には、「最近ボストンに来たが、周りに友達も知り合いもいないし、外にも出られないし孤独でどう過ごしていいのか分からない」という投稿を見かけた。
その一方で、私が働く花屋は営業を続けていたので、どうしても仕事に行くために外に出ざるを得ない日があった。通勤に利用する地下鉄でテロがあったらどうしようという恐怖、もしかしたら夫といられるのはこれが最後かもしれない、いつもの「いってきます」が最後に交わす言葉になるかもしれないという不安、そんな気持ちを抱えながら家を後にしたことを思い出す。

結婚式、パーティーなどのイベントは軒並みキャンセルになり、花屋業界は痛手を負った。そうかと思えば、飛行機が突っ込んだビルで働いていた婚約者が行方不明になり、結婚式の日が近づいてもキャンセルできずに花の準備をしているという心が痛むような話も聞いた。私達家族に直接の犠牲者は幸いいなかったが、ツインタワーを崩壊させた飛行機が2便ともボストンから出発したということで、このように身近なところで影響を受けた人の話をぽつぽつと聞いた。

私は戦時中の時代を体験したことはないけれど、それまで、
「多くの人はなぜ疎開せずに東京に残っていたんだろう」
という疑問が、この事件を通して初めて解けた。
人々は生活を続けてお金を稼いでいかなければならないのだ。
いつ終わるかもならない不安を、攻撃されるかもしれないという恐怖を抱えながら。

そうした状況から少しずつ抜け出し、街に活気が戻ってきたのは11月の感謝祭の頃だった。それまで、アメリカにしては珍しく何でも自粛、自粛でイベントの実施を控えていたのが、ようやく終わりを告げた。アメリカ人にとっての感謝祭は、日本人にとってのお正月みたいに大切な行事だし、これを機に、いつものように家族で集まってつながりを確認したかったのもあるんだと思う。誰もが、人とのふれあいに飢え、人との関係を再び紡ぎ直しいという思いを抱えていたのだと思う。

日が経つにつれ、事件の記憶は少しずつ薄れていった。
でも、毎年、この時期になると、心がざわざわする。
毎年、ボストンでも追悼式のテレビ中継があるけれど、12年経った今でも、まだその様子を観ることはできない。普段は忘れている、あの時に感じた、複雑に絡み合った気持ちを思い出してしまうから。

そういえば、6年ほど前に今とは別の花屋で働いていた時、配達専属のドライバーがいた。陽気で楽しい人だった。20年以上、航空会社のフライトアテンダントをしていたという。当時の、スラリとしてイケメンだった頃の(笑)制服姿の写真も見せてくれた。フライト中の面白おかしい体験談もよく話してくれていた。気に入った仕事だったようなのに、なぜ辞めたのか不思議に思いながら聞かずにいたのだが、ある日、その答えを先輩の店員さんが教えてくれた。
彼はね、ナイン・イレブン(アメリカではテロ事件のことをこう表現する)の時には現役だったんだけど、あの飛行機は、まずほかのところから別のフライトとしてボストンに到着したんだよね。で、彼はその便に乗務していたんだよ。その後NYに別の便として飛んで犠牲になった乗務員とは全員同僚だった。だから、それ以降、二度と仕事に復帰できなくなってしまったんだよ。

いつも騒がしくてジョークばかりを飛ばしている陽気な彼に、そんな辛い過去があるとは知らなかった。

ニュースにならないような小さな、でも、当事者にはその後の人生を大きく変えてしまうような傷跡を抱えて生きている人達がまだたくさんいるはずだ。命を落とした人々と共に、私は、事件に深くかかわった場所に住んでいた者として、そういった人達のこともずっと忘れないでいようと思う。



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