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ウクライナとロシアと宮沢賢治に思う

この度のウクライナとロシアの戦争に対して、すごく単純な感情として、宮沢賢治の詩にある、

“北ニケンカヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ”
(雨ニモマケズ)

そんな、
その程度の気持ちで見ていた。当初は。

どちらが正しいのか、どちらが悪いのかは後からよく話を聞くとして、

まずはやめようよと。

強者が弱者に理不尽に喧嘩を売り、しかも強者側は武器まで持ち出している。そりゃ、やめさせようと思うだろ。

強者側の動きを止めるために、
腕を抑える
胴に腕を回す
羽交締めにする

経済制裁はそういうイメージ。最善策だと思う。(見ないふりはしない)
「制裁」というと何だか罰や加害的なイメージだが、実質は誤った力を抑制するためのものだろう。(だが、抑える側もノーダメージでは済まないことの覚悟は必要だけど)

防弾チョッキを送るのも良い。
でも、弱者側に武器を与えて「さあ、やれ!やれ!」というのはちょっと違うと思っていた。

でも、そう思っていたのは初めだけだ。

ここまで一方が傷つけられ奪われてしまったら、ツマラナイからやめようなんてとても言えない…
(やられた方からしたら全然ツマラナク無い)
尊厳を守らせてやるために強大な武器すら持たせたいと思ってしまうのだ。

宮沢賢治が雨ニモマケズの最後、「そういうものに私はなりたい」で終わるのは、ほんのささやかな理想すら実現するのがいかに難しいか、そんな苦しさや悲しさが滲んでいるんだ。

…本当にツマラナイ事だね

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