「小説 名娼明月」 第38話:厭な商人

 阿津満の病気は、軽くはなったが、まだ床を離れぬ。合力の蓄えも、もう費(つか)い果たした。ただ貯えを費い果たしたばかりではない。少なからぬ宿料の滞りと、宿から立て替えてもらったる薬代がある。こから先の母の薬代をどうしよう? 宿屋の払いはどうなるであろうか? それかといって、自分が今外に出て袖乞いをしていては、母の看病をしてくれる者がない…

 とお秋はいろいろと考えを巡らしてはみたが、全く見知らぬ土地である。かつ世慣れず仕事馴れぬ女の身である。どう苦心してみても、母娘一日の宿料薬代を稼ぎ出すべき途(みち)がない。
 お秋は思案に余って、とうとうこのことを宿の主婦(おかみ)に頼んでみようという気になり、その夜、自分の身の上の概略(あらまし)を語って、生業(なりわい)の途(みち)を嘆願に及んだ。
 すると、宿の主婦は、何と心得しものか、

 「はい、あなたのご嫖緻(きりょう)ならば、それは何の造作もありませぬ」

 と独り頷(うなず)き、やすやすとお秋の頼みを引受けてしまった。主婦は翌日の朝、四十五歳の商人体の男を連れ帰ってきた。そうしてすぐに酒や肴の用意にかかって、大抵な忙しさではなかった。
 日は暮れた。お秋が母の枕元に坐って、古郷の話しなどしていると、主婦が出てきて、何か仔細あるらしく、お秋を次の間に招(よ)んだ。
 お秋は、変なことだとは思ったが、言わるるままに、次の室(ま)に行ってみると、主婦は莞爾(にこにこ)もので、

 「ちょっと来てお酌をしてくださらぬか? 大方ものになりましょう」

 と云う。
 お秋には、主婦の言う意味が判らぬ。

 「何が "もの" になります?」

 と真面目に訊くを、主婦は笑って立ち上がりながら、お秋の肩を軽く叩き、

 「初心(うぶ)らしく尋ねなさるな」

 と言って、先に立って、お秋には、ますます、主婦の言うところが判らぬようになった。
 この上訊けば、また厭に笑われる。なんとなく気味が悪いが、来いというからには、行かぬわけにはいかぬ。

 「今すぐ参ります」

 と言って、お秋は一旦母の室(へや)に帰り、

 「不時の来客に、勝手元不捌きのよしなれば、暫時加勢をしてまいります」

 と言い置き、主婦に引立てられるようにして躡(つ)いていった。
 主婦に誘われて行けば、そこには曩(さき)の商人風の男がいて、宿の主人と差向いで、何やら心易く話している。主婦は主人の側に身を寄せて坐り、

 「お秋さん、ここへ来て、檀那にお酌をしてくださらぬか? わたしがお酌では、お酒の味がせぬとおっしゃる。さあ、こちらへ」

 と言って、お秋を商人の側に坐らせた。
 いかに初心のお秋と言っても、もう大概、事の次第は判った。

 「落ちぶるれば、かくまでも卑しめられるものか…」

 とお秋は我が身の不幸を嘆き、主婦の取りなしを心に憤ってはみたが、いろいろ宿に世話になっている身であれば、主人夫婦に対しても、そう一思いに撥ね付けては立たれぬ。酌だけはしてやろうと銚子を持てば、商人は故(ことさら)に衣紋繕い膝掻き合わして済まし返り、時々厭な目つきをしてお秋の横顔を視入る。
 今にも逃げ出したい心を耐(こら)えて酌をしていると、商人は、面(かお)の相格(そうごう)崩して、杯をお秋に献(さ)す。一滴もできぬと云って断るを、商人はお秋の手を握って無理強いに杯を握らせた。
 お秋にとって、これくらい辛いことはない。しかし、主人夫婦の手前を思えば、あまり無愛想にもされぬ。
 腹立たしさを押えて盃を口にする心持ちは、実に針を呑むように苦しい。

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