「小説 名娼明月」 第20話:道中の危難
下僕要助に勧められて、お秋は月光を浴びながら、庭瀬の宿を出て白石に向かった。この街路は庭瀬より平野を過ぎ、備中の国境を踰(こ)え、半里余りの小松山を踏み越して、備前の白石に到り、それより北長瀬、大鳥居等の諸駅を経て、岡山の城下に達するという、中国随一の往還であるから、昼の間こそ旅客の行き交う者が絶えないけれども、時は群雄割拠の戦国時代である。英雄とか豪傑とかが、互いに領地の奪い合いをした時であるから、夜に入れば人影全く絶えて気味悪きばかりに静かである。
お秋は今年二十歳。繊弱(たおやか)なる女の身ながら、さすがに一秋の女(むすめ)である。この不気味なる街道を、さのみ心にも掛けず、風に戦(そよ)ぎて、月の光に輝く稲葉の波を眺めておるうちに、神気ようやく澄んで、昼の疲れも忘れてしまい、男も及ばぬほどの元気で、平野町を過ぎて、小松山に掛かった。
ここは一帯の丘であって、北は平山に続き、南は藤戸の渡しまで家がない。東西また一里余の人離れであるから、淋しいことは、この上もない。
お秋は、要助の勧むるままに、芝生の上に腰掛けて休息すると、要助も烟草を燻(くゆ)らしながら、その側(そば)に腰を卸して休んだ。そうして、用心深く前後を見廻して、心持ちお秋に擦り寄った。
「さこそ疲れさせたまいしならん。これより白石は半里にも足りませぬ。ゆっくり休息して往かせたまえ」
と言いながら擦り寄って、突(つ)と、お秋の手首を握った。
「そちは何をするぞッ!」
と驚き、お秋が払い除くるを、要助はびくともせぬ。
「何するぞとは、情(つれ)なきお尋ね。二年この方の辛抱も、あなたのお顔を見たいばっかりのこと。いつか機(おり)が来ようかと明け暮れ、忘れなかりしほどの甲斐ありで、今という今、人里離れし夜中の山道とは、何とした幸いぞ!
明朝未明に白石から牛窓通いの船が出るとは、真っ赤の偽り。実は、あなたをここまで誘き出して、年来の本望を遂げんための計略!
驚かるるは無理もなけれど、要助の心中も察して賜われ」
と口説くを、お秋は、ただ呆気に取られて夢かと疑った。
要助を狂(きょう)せるか見れば、そうでもないらしい。と見る間に、お秋は憤りの念心頭に燃え、
「汝(なんじ)、悪魔の魅入りしよな!」
と叱するを、要助は皆まで聞かず、情念の色を顔に輝かして凭(もた)れかかってくるを、
「汚(けが)らわし!」
と突除(つきの)けて、お秋は突(つ)と立ち上がり、
「これまで忠実(まめまめ)しき働きぶりを見せて、この身ばかりか母上までも欺き果てたる横着者! 汝ごときの手に掛かりて、むざむざ嬲(なぶ)らるべき身にあらず!」
と、屹(きっ)と睨んで懐剣に手を掛けた。
いよいよこれまでと思いし要助、
「あなたは要助を切りたまう気か? よし、面白し! 切ってもらいましょう!」
と、脇差(わきざし)引き抜いて突き進み、お秋がこれに応じて、すばやく突いて入るを、要助早くも身を躱(かわ)して、お秋の細腕をしっかと握り、懐剣もぎ取り、むんずと抱きつき、お秋の身、あわれ危うしと見る一瞬間、たちまち現れたる大兵肥満の一人の武士。要助の利き腕取る手も見せず、やすやすと引っ掴んで二三間(げん)。
「さてこそ山賊!?」
とお秋は二度びっくり!
落せし懐剣拾うて身構えすれば、怪しの武士は刀の下げ緒もて、要助をひしと縛り上げてしまった。
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