それは自由か、抑圧か
※注:この投稿では「百合」「シスターフッド」「エス」という言葉をほぼ同義で使っています。
大正時代の少女が主役を張るコンテンツと聞くと、大正時代=吉屋信子の『花物語』の時代、エスの時代という思い込みが強すぎて、勝手に(百合かな?)と思ってしまう。
当時書かれた作品ならともかく、「最近作られた大正時代が舞台の作品」だとまあ普通に男女の恋愛ものがほとんどなので、無意識に一瞬期待→幻滅を繰り返してしまう……。
(幻滅したときにはじめて期待していたことに気がつく)
個人的には、韓国映画の「お嬢さん」のエロシーンがないバージョンみたいなコンテンツが量産される世界になってほしいんだけどな。
こういった作品情報が、自ら調べなくても自然と目に入ってくるような世界になってほしい。電車で広告を打ってたり、テレビCMで放送されてたり、とか。
大正時代に百合が流行ったのは、当時未婚の女性にとって男性との恋愛が御法度とされていたからだ。
そのせいで本当はステキな男性と恋愛したいという少女たちの欲望が抑えつれられていて、その代替物として同性との安全な恋愛ロマンスが求められた……というのは、私も重々承知している。
だから今、女性向けコンテンツで男女の恋愛が当然のように描かれることは、大正時代に少女たちを縛り付けていた「異性との恋愛は御法度」という規範から女性たちが解放されたことの証拠なのだ……ということも、もちろん理解している。
しかし、今はどちらかというと「異性と恋愛しろ」のほうが外圧になっているように思える。
かつて「自由」としてもてはやされたものが、今は「異性との恋愛は御法度」にとって代わり、新しい枷になってしまったような。
だから「もっと自由に」「新しい時代を」と望んだとき、外されるべき枷は「異性と恋愛しろ、それが当然だし女性が憧れるべきものだ」という既存の固定観念のほうなんじゃないかという気がする。
『花物語』やエスの時代から、現代までずっと続いている呪いがある。
それは「子どもを産み、母になれ」というもの。この呪いを解くためにも、生殖を前提とした異性との恋愛以外の道をオープンに開けておく、ということが必要な気がする。
女性は共同体の人口維持のために生きているわけでもなければ、そのためだけに生存を許されているわけでもないのだから、それを体現する生き方の人がもっと大っぴらに肯定されてもいいのではないか。
というか、人口維持云々の話で言えば、そもそも人間は両親の二人だけで子育てをする生き物ではないのだから、核家族化してしまったこと自体「人類はその方向性で大丈夫か?」と思うし、ましてや最近よく聞く母親のワンオペ育児なんて設計上できなくて当然じゃないか、と思う。
だから、今までそのやり方でなんとか成り立ってきてしまった(=つまり「これからもできるよね?」的な幻想が生まれてしまった)ことは、実はかなりまずいことなんじゃないかと感じている。
まあ戦後の復興の時期はそのやり方でなんとかなっていたのかもしれないが、今は戦後のような極限状態でもないし、「無理のあるやり方だけどこの運用でやっていこう!」とはならないのではないか。
「そんなに大変なら子ども産むのはやめよう」となるのが普通の感覚だと思う。
「男が稼ぎ、女が家事や育児をする核家族」という家庭イメージが日本に定着したのは第二次世界大戦後のことだそう。その前も性別による分業はあったが、昭和期のモデルとはだいぶ違う形態だったらしい。
たしかに昭和期の「男が働き、女が家庭を守る」という核家族モデルの成立条件を細かく見ていくと、ある程度文明が発展していろいろと条件が整わないととれない形態だということがわかる。
最低限、産業革命と資本主義の発展→工業化と都市への人口集中→家庭収入の安定化は必要なので、いくら古く見積もっても産業革命の時期ぐらいがそのはじまりではないか?
だからこのまま両親、特に母親だけに家事育児の負担をかけ続ける状態を放置すると、人口はどんどん先細りしていく気がする。
父親の育児参加が〜みたいな話は昨今よく聞くけれど、もはやそういう次元の話でもないのでは、と個人的には思う。
──話を戻して。
別に私は、異性恋愛を扱ったコンテンツがなくなればいいと思っているわけではない。
そういったものに憧れる気持ちは別にあっていいと思う。
だけど、そればかりプッシュされると飽きるんだよなぁ……というのが本音だ。
つまらないのよ、それ。
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