内藤朝雄『いじめの構造 なぜ人が怪物になるのか』

 所属するジェイラボ基礎教養部の活動の一環で、タイトルにある本を読んで書評を上げることになった。私が内容をかみ砕いて紹介するよりも実際に読んでいただくほうがよいと思い、ここでは私の単なる感想を書いていくことにする。

 私がこの本を初めて手に取ったのは確か大学 2 回生の頃で、教職課程の講義でレポートを書くための題材にしようと考えたのがきっかけだった。昔から内職に集中できない体質だったのと、他の生徒が目に入ると気が散るため前の席に座っていたこともあり、教職に限らず大学の講義は (主観的には) ちゃんと聞いていた。だが、教職の講義で好奇心をそそられた記憶は1度もない。教員の父に免許取得を条件に大学進学を許可してもらったという経緯もあって、もともとモチベーションはそれほど高くなかったというのも、その理由の一つではある。ただそれだけではなく、

  小中高と12年学生をやっていたらなんとなくそんな気がしないか?

ということが小難しい言葉で説明されているだけに聞こえたのだ。

      問題行動を起こす生徒こそ何か問題を抱えている。

これのどこに意外性があろうか。淡々と「事実」が並べられ整理されていく講義は、退屈で退屈で仕方がなかった。

 本書を最初に読んだときもそうだった。私は地元の小中学校に通い、それこそいじめが日常茶飯事であるような、荒れた環境で少年時代を過ごした。そんななかで感じていたこと、自分なりに抽象化して目の前の現実を理解しようとしたことが、ほとんど同じような意味合いで本書に言語化されていた。特に第2章第1節にある「寄生虫」の喩えは、当時中学1年生の私が感じていたことほぼそのままだった。

 いじめに関する「事実」が「事実」だと感じられてない人に対して、そしてそのような人にとっては目をふさぎたくなるような悲惨な実例を交えて、類した意味の表現で何度も何度も「事実」が繰り返し説明される。しかも、おそらく意図的だと思われるが、''寄生虫'' (いじめ被害者の比喩としての) '玩具(おもちゃ)''' のような強い言葉が時折効果的に使われる。熱くなりすぎたと感じたのか警鐘を鳴らす意味なのかは作者のみぞ知るが、

「これらの事例は例外的なもので、「ほとんどの中学生たちはこんなひどい人たちではない」と感じられるかもしれない」

といったん冷却材を挟む箇所も見られる。ともあれ、じっくりじっくり「伝えよう」「わからせよう」という意思がこれでもかと伝わってくる。これが大きな本書の特徴の1つと言える。その熱意や表現に、視界がパッと開けるようなカタルシスを覚える方もおられるだろう。ただ、僕にとっては単なる「事実」確認にしか感じられなかった。むしろ、こんな当たり前のことを熱量をもってずっと説明されるのが苦しくもあったように思う。長年研究してきた結果は中学1年生にもわかるようなことなのか、と生意気極まりない感想を持っていた。

 しかし、今回改めて読み直してみて、まったく印象が変わった。

 学部生時代の4年間に、地元の個人塾で数学や古典を教えた経験がある。国公立大学の理系学部への進学を目指す優秀な子もいれば、義務教育レベルの内容もままならない子もいた。彼ら彼女らを教える中で、教育がいかに難しいものであるか、自分がいかに無力であるかを痛感した。当たり前のことをやるだけでいいのに、その当たり前がいかに難しいものであるかを痛感した。「事実」が「事実」足りえない、大きな壁があることを私なりに理解した。私は世の中の難しさをまったく理解できていなかった。中学1年生にもわかるようなことすらどうにもならないことがある。それが世の中なのだ。そしてその難しさに対して熱量を持ち続けることは、もっと難しいのだ。今となっては、本書の文調から伝わってくる著者のエネルギーに敬服するばかりである。

 私は今、大学院生として数学を勉強・研究している。文系入試を経て大学に入り、学部1回生になってはじめて高校の数学 III を勉強しだした。そんな人間がなぜ数学を専攻しようとしたのか。教育学や心理学など、当初興味を持っていた学問が、本稿の最初にも書いたように「事実確認」にしか感じられなかったからだ。一方で数学は、今まで考えたこともないレベルで抽象化されていて、私にとっては新たな視点にあふれていた。それが何より魅力的だった。本格的に大学専門レベルの数学を勉強し始めたのは学部3回生になってからで、教職の講義と並行してそれらを勉強していくのはあまりにも大変だったが、それでも毎日机に向かって自分なりに頑張ってはいたと思う。

 毎日わからないことがどっと押し寄せてくるのは、大学院生になった今でも変わらない。むしろ今のほうが喫緊の課題が多く、週2,3コマとなった講義やコロナ禍での通学時間の大幅な減少による影響で、当時よりもたっぷりと時間はあるのに、疲労感は決して劣っていないように感じる。論文を読まないといけないと思いながらも、学部生レベルの数学を復習して、理解できることへの安心感に逃げてしまうことも多々ある。優秀な人たちと比べればウイルスほどの小さな力しかないうえに、いまだに修士論文として形にできる結果は出せていないものの、それでも数学を勉強研究したいという思いは消えないでいる。

 私はあと2つ勘違いをしていたように思う。そのうちの1つは、本書が決していじめ問題を主目的に置いた本ではないということである。いじめ問題を通じて、世の中の「どうにもならなさ」の構造やシステムを理解し、それを第1歩として「オトナの社会」をよりよく変えていくこと。これこそが本書の主目的であった。教職の講義のレポートの題材としてしか見ていなかったためか、そこが理解できていなかった。本書を最後まで読めばちゃんとそう書いてあるのにも関わらず。

 親の影響で、なんとなく教育関係の仕事に就くのだろうと考えていた。さっき無力感を覚えたとは言ったものの、実際そこそこうまくできている実感もあり、向いているのかと思うこともあった。ただ、そこには本書の著者のようなエネルギーはなかった。少なくとも希望を含んだ正の力ではなかったように感じる。何かに妥協したり、誰かを負の形でまきこんだりするのには、心理的な大きい疲労が伴う。金銭や感謝など、労働の結果得られる利益に比べても、ずっと大きい。それに向き合っていける人を大人とよぶかもしれないが、どうも私はいつまでたっても子どもなようである。決して上手にできるわけではなくとも、比較的ポジティブなメンタルで取り組める数学を頑張ることが、「オトナの社会」をよりよくしていくための私なりのやり方なのではないか。最近はそんな風に考えるようになった。優秀な人なら中学一年生の時点で通ってきた道を、私は今必死に通っているかもしれない。やれることではなくやりたいことを頑張る人をどこかでバカにしていたかもしれない。それが私が犯した2つめの間違いであった。

 一応教員免許というセーフティネットを持ってはいるものの、そしていざとなれば今すぐにでも受験数学をそこそこ教えられるとは思うものの、博士課程で数学をやるというのはかなり苦労が伴うと思う。途中でどうにもならなくなるかもしれない。ただ、とりあえずできるところまで頑張ってみようと思う。本書はその背中を押してくれた。

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