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愛に満ち溢れたもうひとりの自分

私は、小さい頃から我慢をしてきた。
そしていつの間にか、お姉ちゃんだからしっかりしなくてはという呪いにかかっていた。
いつも礼儀正しく、心優しく、人のことを優先することが美徳である環境で育ってきた。
でも、実際の自分はガサツでわがままで自分のやりたいことをいつもやっていたいと心で思っていた。そのギャップで自分を責め続けていた。
いつも人と違う、自分だけなんだか疲れる、集団の中にいるのが辛い。
周りから求められている事ができない自分を責めてしまう。
どこにいても人と違うということがコンプレックスだった。

1年前、コロナをきっかけにオンラインのヨガ教室に通い始めた。
毎週毎週ヨガを通じて「感じて動く」ことと向き合っていたら、徐々にもう一人の自分の存在に気が付き始めた。
「こうあるべき」って本当に自分の声?
「こういう状況になったら最悪なことが起きてしまう」ってただの妄想では?
そうもうひとりの自分が語りかけてくるのが分かった。

柳のような人間になりたい、昔からそう思っていた。
でも実際は、不登校になったり適応障害で休職や退職を繰り返したり何度も心の幹を折っていた。もっと踏ん張れたのにといつも自分を責めていた。
でも、実際は心の幹を折っていたのは周囲の意見や反応に呪われていた自分で、その折れた幹をくっつけていたのはもうひとりの自分だったのではないかと最近になって気がついた。

自分の中の慈しみを持ったもうひとりの自分の存在を知った今、今度こそ柳のような人間になれる気がしている。

ヨガを通じて沢山のことを学んだ。力を抜くこと、快適な状態、不快な感覚を知ることができた自分の感覚を大切にできるようになってきた。
自分と他人、両方を信じることが出来るようになってきた。今までは何も信じれないから自分にも他人にもいろんなことを求めてしまっていた。
つい我慢をしすぎる自分と折り合いをつけられるようになってきた。この我慢はしたい我慢なのかしなくてはならない我慢なのか。少しずつ自分と対話ができるようになってきた。
今はまだ知らない間に我慢して消耗してしまうこともあるが、回復する方法を少しずつ学んで実践をしている。自分に合った回復法を見つけている最中だ。
自分の感覚と向き合うことで深い信頼関係を築けるようになると信じている。そして人に頼ることで深い関係性を築くことが出来ると信じている。
まだ時々我慢をするし、それに気がつかないこともある。もうひとりの自分を置いてきぼりにしてしまうことが多々ある。
でも、自分の感覚に目を向け実感し、行動を起こし始めている。

私は確実に変化している。ただ我慢をするではなく、自分の感覚に目を向け対話を通じて客観視して、必要な力を必要なところにだけ使う。我慢は最小限にし快適さを追い求めていく。
そういう生き方をしていこうと決めたのだ。

一年後の私は、しなやかな柳になっているだろう。
愛に満ち溢れたもうひとりの自分と共に希望に満ちた日々を送っているだろう。
そのためにも、日々もうひとりの自分との対話を楽しむ。


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