東京にて

 どうもこんにちは。田中さん。お元気ですか? たぶん、僕の事なんて覚えていないですよね。それでもいいんです。話したいことがあって、訳があって、どうにもならなくなって、今僕はこうやって何かに縋りつくように手紙を書いているんです。中学校の同級生に向けて書いている手紙は、恐らく僕が中学校の頃に戻りたくて戻りたくてしょうがないような深層心理を表しているのかもしれません。でも、誰でもいいわけじゃないのかもしれません。田中さんにこの胸の内をとにかく聞いてほしくて必死なんです。分かってください。ごめんなさい。
 どうもこんにちは。田中さん。お元気ですか? こちらは雨が降っています。くだらないことかもしれませんが、どうか聞いていただけませんか。
中学校を卒業しました。田中さんとは離れ離れになってしまいましたね。僕は中途半端に地頭が良かったおかげで、何とかそれなりの県立高校に入りました。田中さんは地元の私立高校に推薦で合格したのだけ覚えています。それを最後に、僕は田中さんの動向を知る術が無くなってしまいました。だから、久しぶりにあなたの事を思い出しているというわけですね。高校でも僕は勉強だけが取り柄でした。皆が学校終わりに最寄り駅前の商業施設でお洒落なフルーツフィズやスムージーや生クリームがふんだんに乗ったフラペチーノの新作を飲み、公園でバスケットボールをしたり、カラオケに行ったり、ダンススクールに通っている間、僕は同じ駅前の路地を一本入った場所にある予備校に足繁く通っていました。僕は他のみんなのように部活動に夢中になるとか、習い事に興じるとかはどうしても駄目でした。運動が苦手な僕でもひょっとしたらと思って始めたソフトテニスも二カ月で辞めました。彼女を作って、電車で隣の市までデートに行ってみるとか、プリクラを撮ってスマホとケースの間に挟み込んで青春アピールするような人間にも成れませんでした。僕は高校でも、そんな人たちを心の中の何処かで見下すようにして、参考書を開いていました。勉強をすることこそが、勉強をして学歴を手に入れる事こそが僕のアイデンティティを確立する方法なのだと信じ切って、僕は家でも塾でもがむしゃらに勉強に打ち込みました。
行き帰りの電車でも単語帳をめくって、ひどい時には座席を二つ使って青チャートを解いていました。笑っちゃいますよね。周りの人はどんな目で僕を見ていたのでしょうか?
 僕は勉強をして、いい大学に入って、いい会社に勤める事こそが正義だと信じ切っていました。今ステレオタイプに染まりきった青春を謳歌するよりも、このうら若い時間を勉強に充てることが未来の充実への第一歩であると信じてやみませんでした。何も出来ない僕が、たった一つ他の人よりも少しだけできることが勉強でした。捻くれていた僕は、駅前にある大きいけれど寂れたイオンでジュースを飲みながら服やピアスを見たりすることの何が有意義なのかも、プロにもならないのにグラウンドで汗と泥まみれになりながら涙を流して野球の練習をすることの意味も分かりませんでした。
 それだけ必死に必死に勉強してきました。でも東京大学には落ちました。滑り止めで早稲田の文学部に受かりました。人生って残酷なんですよね。あれだけ僕が信じ縋ってきたものは、あれだけ僕が全てを犠牲にして取り組んできたものは、あの試験の日一日の出来で全てが水泡に帰してしまうのだということを、僕は初めて知りました。それは今まで僕が培ってきたものを否定されるという点で、今までの人生で捨ててきた何よりも酷いものでした。
 プライドが肥大化しきっていた僕は、浪人をせずに早稲田に通う事にしました。東大を諦めることが僕にとっての逆説的なプライドでした。自分の得意分野すら打ち砕かれたというのに、僕は東大なんざくだらないものと決めつけて自分を正当化しようとしました。それでも大学では、俺は東大落ちだぞ、本当はこんなところにいるような人間ではないんだぞというのを心の中でずっと考えていました。東大をもう一度目指すという選択肢はありませんでしたが。同級生には早稲田にやりたいことがあるから来たということを強調していました。本音は、もう二度とあんな勉強だけに身を窶した生活を送りたくないということに他なりませんでした。それと、僕はまずこの地元を出てどうにかして東京にたどり着くことだけを考えていました。この日本の片田舎で、文化の最先端が地元の駅からどろどろと流入してくるこの世界で、僕は間抜けな顔をして世界基準では廃れつつある流行に耽溺しながら一生を終えることはどうしても考えたくありませんでした。寂れたイオンに一年遅れで入ってくるヴィレッジヴァンガードやFranc francのロゴを見るたびに、特に僕はそう思うのでした。酔生夢死を忌避する心とでも言うのでしょうか、東京には自分が幸せに暮らせる何かがあると信じて、僕は根拠もないまま上京しました。
 髪を茶色に染めました。今まではずっと親が買ってきたユニクロの服を着ていましたが、それもやめました。フィルメランジェのカットソーやシュプリームのシャツを着て、バレンシアガやドクターマーチンを履きました。ブランドにはこだわらずに古着も着ました。ハイブランドも一つは持っておいた方がいいかと考えて、マルジェラの黒いアウターと長財布も無理して買いました。全てはあの片田舎を捨て去って、都会に染まりたいという一心からでした。
 下落合の川沿いの1Kのアパートに暮らしました。高田馬場から池袋へ。山手線の外回りから内回りに乗り換えて、新宿へ。ヤンキースの帽子を被った小汚いおじさんや仕事帰りのサラリーマンを押しのけながらSuicaを改札に叩きつけました。新宿で何回酔っ払いながら朝を迎えたかは覚えていません。全てはあの背の低い街に引かれた土留め色の稜線を、パチンコや風俗くらいしか娯楽の無い寂れた繁華街を、未来も希望も何も無いようなあの街を自分の中から洗い流すように、僕は必死に東京に染まれるように生きていました。
 肥大化したプライドを持て余していた僕は自分の能力にかまけて明確に努力することをしませんでしたから、有名な外資、コンサルや商社には入れずじまいでした。最終的に、文構のOBも勤めている新宿の駅外れにある小さな出版社に入りました。何者かになれると信じて東京に出てきた僕はそこでも何者にも成れないまま、表情を変えることの無いゲラとにらめっこする日々が続きました。
 自分を変えようとも思って、本を読みました。それも、まだまだ滲み出るプライドを隠せていないような洋書。ディケンズやスタインベック。貧者を礼賛し資本家を鋭く批判するようなもの。ボードレールやカミュは難しすぎて僕には無理でした。でもこれらは僕の苦しみや悲しみに寄り添ってくれるようなものではなく、ただ幾何かの虚無感と凝り固まった考えを僕に残していっただけでした。というか、ここまでひたすら両親の脛をかじって生活していた僕は貧民礼賛の主義主張を唱える彼らにとってはもはや敵とも呼べそうな立場にいるものでした。河出文庫が出した「大いなる遺産」の表紙の中の奇妙な男が僕を嘲笑しているようで、気分が少し悪くなりました。
 人間関係が苦手でした。サークルで一緒になった早稲田の同期は僕を誘わずに皆で飲みに行ったり、ハイエースを二台借りて海に行ったり、スノボをしたり大学生というものを満喫していました。コミュ力やコネを武器にどんどん大人や先輩の力を借りながら単位もしっかり取り、エントリーシートを書き、安パイの就活の成功祝いとして代官山で騒ぎながらまた飲み歩いていました。僕は他人と迎合することを高校生までにほとんどやってきませんでしたから彼らのようにはなれなくて、無理をして髪と一緒に茶色に染めたようなメッキはいつの間にか剥がれて、大学時代はいつの間にかサークルもやめて、駅前の予備校でチューターをやっていました。社会人になってからも専修大や法政大の同期と上手くなじめず、ただ一人だけで積み上げられた書類を手で退かしながら小さく欠伸をするだけの生活を送っていました。僕にとっては、東京という二文字がいやに魅力的に見えていました。でも、いざ此方に出てきてみると、東京というのはそういった幻想を抱いた地方出身の田舎者達の集合体が形作っているものに過ぎないのだと気付きました。新宿駅近くの喫煙所には中途半端なベンチャー勤めの四つか五つ年が上の彼氏か、あるいは恐らく腹の出たパパにねだって買って貰ったであろうディオールのバッグをこれ見よがしに抱えた茶髪の頭の悪そうな女がピアニシモをエロく吸っていて、その横には灰皿に上司への恨みをぶつけるようにメビウスの火を押し付けている窶れた顔とスーツのサラリーマンが居ました。そんな人たちが多くて、何も東京には僕が憧れ望んだようなものはありやしませんでした。人が多いということ。僕が東京に住んでみて、歩いて、気付いたことといえばそれくらいしかありませんでした。どこを見回しても人ばかり、実家に住んでいた頃から親にそう言われ続けては居ましたが、まさにここは人の海でした。余りに多い母集団の中で、生半可な個性は圧倒的な類義に握り潰され、いつの間にか人々は息詰まる無個性の濁流に流されて、生きる。恐ろしいことに、自分自身が濁流に流されていることに辛うじて人々が気付いたとしても、自分もまた濁流の一部であることを自覚している人は少ないのです。東京という日本の中でも最も大きい都市は、そうやって人々をぐるぐると飲み込みながら拍動しているのでした。
 青春をバカにして、捨てて、見下して、勉強に必死に打ち込むことで得ようとした未来。ずっと僕が追いかけてきた輝かしいものはここにはありませんでした。ある朝。僕は吐きました。ニュースで上機嫌なアナウンサーが恋人への人気な贈り物のランキングをニコニコ顔で紹介しているところでした。上ずったアナウンサーの高い声が、僕の頭の中でガンガン響いて、僕の心臓の柔らかな部分を爪を立ててきゅっと握りしめているようで、ひたすら僕に形容し難い苦痛を与え続けました。ストレスは限界まで膨れ上がっていました。出版社での仕事も人間関係もうまくいかず、休みの日には布団から動けずテレビを点けたままひたすらボトルの安酒を煽りながら惰眠を貪る日々。友達もいません。仲の良い先輩も後輩もいません。まして、彼女なんているはずがありません! 病院に行きました。うつ病と診断されました。仕事をいったん休職して、カウンセリングに通って、何か打ち込めるものを探すとよいと茶髪のカウンセラーに言われました。何もする気が起きず、ついに休職期間が四カ月を超えたころに、僕はその出版社を辞めました。仕事を辞めて、地元に戻ることにしました。悲しいかな、あれだけ嫌だった故郷に、逃げるように振り切った土留め色の稜線と僕は再び顔を合わせることになったのです。何物かになりたかった僕は、何者にもなれないままの僕になりました。長い永い時間を経た間に、僕の心は急速にすべての物事への執着を失ってしまいました。
 僕が得たかったものは何だったのでしょうか? 勉強をして、全てを捨て去って、人々と深く関わることもせず、かといって若さを生かして勢いに任せ、この世界の輝き煌めきを享受することもせず、何も生み出せず。勉強をすることが問題なのではないのです。勉強しかせずに、他の何もかもを犠牲にしてしまったことが問題なのです。そしてその分野すらも極めることもできずに、何物にも成れない人間になってしまったことが問題なのです。本来ならば、僕は要領よく生きて、学業も優秀に修めて、大手外資企業にでも勤めて丸の内の高層ビルの中で値段の高い高いリヴェラーノのスーツでも着こなしながら涼しくよろしく笑っていたかもしれないのです。それがどうだ、がさがさの紙とインクに囲まれて、パソコンを虚ろな目をして叩く。しばらく先の出版予定のさして文量もない文庫本の校正すらも満足にできず、紙の補充くらいしかまともにできないんじゃないと事務の人たちに毒づかれていたであろう生活。ひっそりとミスをしないように慎重に静かに静かに自分の仕事をして、定時になると逃げるように退勤する。誰にも頼れず、あてもなく銀色のパッソを郊外に走らせながら、車内で声にならない苦しみをどこか遠くに飛ばすように、この辛い現実から逃げ出すように当てもなくただ大声で叫びました。救済なんてものはどこにも存在しないというのに。
 たぶん、僕は自分の事を過大評価して、自分の事を特別な存在であると認識していたのです。東京という都会に対して何の根拠も持たないまま自分が良く生きられるような栄光があると妄信し、人を見下し、それでいて見下し続ける程の能力もなく、すぐに他人に追い抜かれ、自分自身では何もできないような矮小な存在でありながら見栄を張って生きていました。というか、その実、矮小なプライドをずっと持ち続けたまま、僕は大人になったのでした。いつの間にかそのプライドは何も生み出してくれることはなく、同期は次々と立派に就活を終わらせて大手に努めたり、独り立ちしたり、次々と社会で成功を掴んでいき、僕だけがいつの間にかただ何となく生きる無個性の濁流に取り残されるように立っていました。僕が抱いていた都会での夢だとか、儚い幻想は、具体的な形を持っていなくて、ただ形にならない靄がかかった野望の集合体でしかなかったのです。ここで暮らしている内にそれすらもいつの間にか薄く薄く削り取られていって、僕の中にはもう芥ほども残っていませんでした。
 地元に戻りました。
ちゃんとユニクロを着るようになりました。家から車を十分ほど走らせたところにあるドン・キホーテでアルバイトを始めました。今年で二十七になります。両親は世界の中で唯一僕を心配してくれていますが、この先どうなるかは僕にも分からないのです。東京にいて、そこで暮らして、自分の自律神経が少しずつおかしくなっていくのを日々感じていました。一度壊れてしまった心は、もう完全に元には戻らないのです。駅前のダンススクールに笑顔で通っている子たちや、友達と笑いながら自転車を飛ばして何処かに遊びに行く子たちを見ると、どうしようもない気持ちになります。どうか、一時の気の迷いで僕のような人間にならないようにと願ってやまないのです。
どうもこんにちは。田中さん。お元気ですか? こちらは雨が降っています。中学校の時以来ですね。あなたは僕にとってたぶん一番の友達と言える存在でした。仲良くしてくれてありがとう。でも、田中さんはたぶん一番の友達と言える存在は他にいると思うし、悲しいけど僕の事なんかもう覚えていないかもしれない。それでも、どうしようもなくて、今あなたに手紙を書いています。
人生は残酷で、今まで必死に打ち込んだことでも簡単に裏切ってくることがあります。何者かになりたくても、どうしようもなくて、何もできなくて、悲しい程に能力がない自分に強く打ちひしがれることが多いです。たとえそれが生まれつきの劣等だとしても、僕はそれを共有して、受け入れて進んでいくしかないのです。人々は、甘んじて、どうにかして生きていくしかないのです。
僕が不幸であったように、世界に生きる全ての人々には彼らにしか分からない苦しみを持っていることでしょう。もちろん田中さんにも。傍から見ると何も悩みが無さそうな、高校生の時に着ていた制服でディズニーランドに行って遊ぶ同級生も、毎晩毎晩飲み歩いて休みの日の午後からフットサルをする彼らも、きっとその人にはその人なりの闇があって、不幸があるのです。その人にしか分からないその人だけの地獄があるのです。僕は自分だけが特別な存在であると勘違いをし、人を、世界を見下し、人の不幸を軽んじていた惨めな人間でした。でも、あなただけは、君だけは、そうならないでください。誰もが苦しんでいることを知り、自分自身が濁流の中にいる事を知ってください。僕も生きていきます。もう一度、人生をやり直して、劣等にまみれた中でも自分を少しずつ少しずつ取り戻していきながら生きていきます。苦しいかもしれないけど、死にたくなるかもしれないけど、それでも強く生きて行こうと思います。どうか、どうか、田中さん。君にこの言葉が届いてくれますように。
 
 
『東京にて』

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