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生きたまま埋められる埋葬不安の裏にあるもの

結構な割合でこの地球上に生を受けたら生きたまま埋められることって多いと思うんです。どんぐりはリスがうっかり土に隠したまま生きたまま埋められるし、その他の種だって結局発芽できるのはほんの一部で、大概の種は生きたまま埋められて土に還るのです。

にもかかわらず、人間の生きたまま埋められることに対する不安、埋葬不安が多くの文学作品のテーマとなっているわけです。特に今回はE.A.Poeの「埋葬不安」をテーマにした作品の裏に隠されたもう一つのテーマについて以下の仮説を立ててみたいと思います。

「埋葬不安」とは、自分が生きている間に正当な評価を得られずこの世界から忘れ去られてしまう恐怖ではないか。というのが本稿の仮説です。

現在日本では火葬にして骨になって埋葬されるわけですが、少し前までは亡くなった人は土に埋められ葬られる土葬も普通に行われていました。アメリカでは、ポーが生きていた19世紀初頭から中期にかけてはもちろん土葬が主流です。

もちろんポーの作品において見られる「生きたまま埋められる」埋葬不安は、死んだと思われているが実は生きていてそのまま埋められるその恐怖を描いています。『アッシャー家の崩壊』(The Fall of the House of Usher)、「ベレニス」(Berenice)、「早まった埋葬」(The Premature Burial)、「アモンティリャードの酒樽」(The Cask of Amontillado)ではその不安が前面にドラマのクライマックスと結びついています。

しかしこれらの作品に見られる埋葬不安をもう一層めくってみると、まだ自分は死んでいないのに、死んだと見なされ埋められて、この世界から亡き者とされるという不安は、まだこの世界に承認されていない、もっと本来自分が得られるはずだった評価を墓の向こうから訴えているようなそんなイメージが浮かびます。

あまり作品と作者の人生を結び付けるのは、アプローチとして単純に過ぎるわけですが、ポーがここまで埋葬不安をテーマとして作品に挿入するのには、「自分はまだ死ぬわけにはいかない」「死んでも死にきれない」という自己の作品が評価されるまでは生きていたいし、評価されるような作品を書きたいという作者の悲しい必死さもあるのではないか。死んでも死にきれないから今死ぬわけにいかない、埋葬されても生きてやるくらいの、今生において評価を得なければという執着も相当あったのではないかなと今日は感じてしまうのでした。

現在『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』(The Narrative of Arthur Gordon Pym of Nantucket)における埋葬不安についての論文を書いている最中ですが、この作品は海洋小説であり、ピムは航海中なのですが、木箱に土に船に閉じ込められる体験を数多くします。海洋小説というと、自分の外に出る自由さ等をイメ―ジしますが、この作品中で描かれるのは、どこかに閉じ込められる不安とそこから出ようとする葛藤劇です。もちろん航海シーンは多く冒険譚ではあるのですが、主人公ピムを襲うのは常に「幽閉不安・埋葬不安」が中心となる恐怖です。

そこで連想するのは、人間というものはどれだけ外の世界に出て自分を認めてもらいたくても、結局「生きている間に多くの人に認めてもらいたい」という自分が自分に与えたオブセッションから出られない生き物なのだという点です。SNSで自分に近いもう一人の自分を創造し、その人物に自分を託すわけですが、SNSとは外のようでいて、大きな自我そのものです。SNSで認められたいという欲求は結局、自分が自分に与えた「誰かに愛されたい」自画像を描く行為なのでしょう。それはとても健全なことでしょう。その自画像に近づこうとすることで、現実時間が潤いのあるものになっていくわけなので、自分を自分で認めてあげるチャンスは増えるわけです。ただ注意したいのは、別に生きている間に自分が生み出したものが大多数の人に理解されなくても、自分がなした営為はもうそれだけで意義深いという点です。

むしろ、時間を経て発掘され理解され共有される作品は多く、生きている間に賞賛を得られるか、死んでから愛され続けるかは時の運でしかありません。

ただ、自分の子孫を残したい、自分の名声を残したい、自分の財産を残したいというような生きた証を残したいという人間に共通の「わたしはなんのために生まれてきたのか?」の答えを分かりやすく見える形で残したいという欲求に縛られて生き続けるのが人間なので、自分が生み出した作品であれ、自分が生み出すもう一人の自分(SNS上の自分)であれ、それを思い描いたように、他者に受け入れられたという気持ちは死ぬまで自分に襲い掛かる問いとなります。

自分はこの人生で何を残せたのか?という問いこそが、「埋葬不安」なのかなとすら考えます。人は結局何を残しても最終的に土に還るので、そこに執着する必要はさほどないのですが、それでも「自分が死んで自分を思い出す人はあるのか」という「愛着不安」は、「どれだけ現在自分が愛されていてもなお問い続けてしまう」オブセッション、つまり「自我」世界に閉じ込められた自問自答こそが、自分が自分の墓守であり、自分が自分の墓の番人であり、「生きたまま埋められたらどうしよう」=「いまここでゲームセットになったらどうしよう」という不安は、「もっと生きたい」という強い生の衝動がある裏返しとも言えます。

ピムのように大海に船出して出会ったことない世界に出てみたいと思っても、結局「ここで死ぬわけにいかない」という自分で描きたい自画像に見合う自分にならなければという生の衝動が「ここで息の根を止められたらどうしよう」という不安「埋葬不安」になっているのだとしたら、人は何処に行っても「死んだらどうしよう」「埋められたらどうしよう」という志半ばでの試合終了のホイッスルにドキドキしながら生きるなんて、ただ生きているだけで冒険者であるのが人間なのだなと思わされます。

埋葬不安や幽閉不安にがんじがらめになったり、これは語弊があるかもしれませんが、自宅の自室から出られなくなる状態「引きこもり」であったりというのは、物凄い生のエナジー、「違う自分になりたい」というプラス方向を模索する力の裏返しなのだとこの論考では考えます。

現在なにかの不安に襲われてしまっても、それは「死にたい」からというよりも「いまのまま生きていたいのではなく、もっとより良く生きたいから」という風にもし考えられたら、ポーの作品に描かれる「埋葬不安・幽閉不安」が現代的には、明るいメッセージを持つのかなと考えたりします。

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