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シン・エヴァンゲリオン考察

2021.03.17水曜日。1回目のシン・エヴァンゲリオンを観てきました。以下感想です。ネタバレしてると思うからまだ観てない方は読まない方が良いかもです。

劇場版エヴァンゲリオン序、破、Qと観てきて、謎の答え合わせをしないままきっと、あわあわと終わっていくのだと思いながら見始めたら、むちゃくちゃ、シン・エヴァンゲリオンは答え合わせをしてくれてました。まずそれにびっくり。

そして前三作と比較して、圧倒的に戦争映画だったんだ!エヴァンゲリオンは。というテーマ性もはっきり描かれてた。ガンダム←テレビ版のオリジン。と比較すれば、エヴァは、少年少女の魂の孤独と愛の重さから成る、他者阻害、他者理解の精神的葛藤の物語だと私は思っていたのだけど、シン・エヴァンゲリオンを観て、ただお話を終わらすために、葛藤を終わらせるのではなく、この物語は、もともと、ある人物の独善がもたらす狂気の戦争を、周囲が止められない場合、憎悪と失望の中、人はどうやってその狂気と向き合うか。

つまり、ナチズム、太平洋戦争、などの、より民族の純化、単一化、均一化を目指す狂気の戦争(碇ゲンドウ)に対し、周りの人々はなにが出来るのか?

みたいな、絶望感ばかりが漂う世界で、誰かの狂気を止めるために、希望あふれる若者が、命を賭して、戦争パラダイムを壊していくという話だからこそ、観ていて、ネルフやゼーレに対する訳の分からない憎悪が増幅してきたのかと腑に落ちる。

シンジくんをはじめとするレイやアスカなどの子供たちは、より純化したカオスのない世界を作るために、作られた子供たち。

ゲンドウが目指すのは、AIがいつか人類を超えて人間というカオスそのものを支配していく、超効率型世界。感情も情緒も個体差もない世界。それを目指したのは、ゲンドウが、個体差のある人間同士が目指そうとする「手を取り合う」小市民的な日々の暮らしのために互いの利害を抑制しあう、小さな幸せのためのコミュニケーションを嫌うから。

ゲンドウは、官僚型社会や、ルールが人を画一的に縛る合理化社会を目指すのだけど、その息子や娘である子供たちは、統率しきれない感情を抱きながらも葛藤を受け入れる自己の弱さを認めるある種現実的な社会を取り戻すために、犠牲となっていく。

ただ単に父権的で家父長的なパターナルなゲンドウの愛の押し売りからの解放劇なだけではなく、狂気の戦争に走りはじめた20世紀初頭から半ばまで続く帝国主義のために、どれだけ多くの命が奪われたのかという歴史考察、歴史批判を含めた、人間の愚かさとそれを止めるために翻弄される人々の苦闘がシン・エヴァンゲリオンなのかなと感じた。

人間が働かずAIに労働を任せるようになり、身体を心を動かさなくなればなるほど、それは進歩ではなく、人として労働の喜びから離れていくという啓示もある。

AIによる最適化された社会で、人のしあわせは得られない。なぜなら、間違えたり悩んだり苦境に陥り手に入れる、誰かと手を携え生きていくという生の実感からしか、人は他者を自己を理解できないから。

そんな労働観も含めつつ、現代人が生きられているのは、数々の若い命が奪われたからこそ、狂気の時代の果てに今がある。そんなことも感じる戦争映画としてのシン・エヴァンゲリオンは、大人や組織と現在進行形で戦う10代の人には特にハマるのだろうなと思う。

ただ、シンジくんやレイやアスカと20代を過ごしてきた現在40代のわたしからすると、泣けてしょうがない物語。ゲンドウの愚かさが、より子供たちの活躍を輝かせるからこそ、他者憎悪と保身狂気、つまりは他者否定を終わらせるために、どれだけの犠牲を伴うかがハッキリ描かれて、胸を打つ。

ただ個人的に、パリが描かれているのは、ナディアを思わせてホカホカしました。

でも大好きな映画。

こんなに胸が苦しいのに涙が止まらない物語が自分に響くのは、自分のナカにもゲンドウ的な独善的保身があるからなんだろうし、その組織を守るために、子供たちを縛る傾向は今も変わらないから余計に胸が痛くなるのでした。



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