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ウルトラの母の未来はAV女優であるかもしれないということ(『GIGANT』考察)

先日「ウルトラの母は団地妻だったかもしれない」という記事を書いた(https://note.com/presentfuturetk/n/n86e3f0563410)。

1971年に日活が製作した日活ロマンポルノ第一作「団地妻 昼下がりの情事」における「団地妻」という「性欲を感じさせる誰かの妻」と1973年に円谷プロが製作した「ウルトラマンタロウ」においてテレビ初登場した「ウルトラの母」が持つあらゆるものを癒す女体性を重ねた考察である。

そして本稿では、脱いでいるのに脱いだ感のまったくない「ウルトラの母」が本当に脱いだ女体になってしまったら、そんな最強の癒しどうなるよ! という煩悩を漫画キャラクターとして成立させてしまった奥浩哉の『GIGANT』のパピコを、初の戦う女体=真の意味での「ウルトラ(何かを超えた)」な女性=ウルトラマン(女体)という仮説に基づいて分析していく。 ちなみに「ウルトラの母」は「銀十字軍」の隊長だが、癒しはするが、戦いはしないという点で、ウルトラシリーズに存在しながらも、戦う身体を持たされてはいないことに注意したい。 だからこそ、ウルトラの母は、団地妻に類似するとも言える。

ウルトラマンが登場するまでに様々な、異形の肉体を持つキャラクターは数々生み出されてきた。 

1952年に漫画誌に初登場した「鉄腕アトム」。 1966年に円谷プロの特撮ドラマに初登場した「ウルトラマン」。 1972年に「少年ジャンプ」で掲載が始まった「マジンガーZ」。 1979年に日本サンライズがTVアニメとしてスタートさせた「機動戦士ガンダム」。 1995年にテレビ東京にて「新世紀エヴァンゲリオン」として庵野秀幸(元GAINAXとの共同名義)が生み出した「エヴァンゲリオン」これらはすべて身体的特徴を考えれば、男性の身体を元に作られた異形の身体である。 (何を持って異形とするかはこの論考では割愛するが、人類に襲いかかる巨大な敵を倒すことが出来る程に巨大で謎の力を持っているということ。 )

「ウルトラの母」は確かに、あのウルトラの父の配偶者なので相当サイズとしては大きいのだが、戦わないという点で、これまでの異形のキャラクターたちとは異なる存在である。 つまり、団地妻と同じく、戦うものを癒す役割を与えられている。

もちろん、『新世紀エヴァンゲリオン』における綾波レイやアスカは14歳の少女であり、操縦者としてエヴァンゲリオンに乗り込むが、その2人が操縦するそれぞれ零号機と弐号機はシンジの操縦する初号機に比較して、女性の身体を模していると言えなくもないが、ウルトラの母のようなはっきりとした女性の身体、 しかも円熟味を増した母性を感じさせる身体性は表象されない。 『新世紀エヴァンゲリオン』のTVアニメにおいても劇場版アニメにおいても綾波レイもアスカの身体も14歳とは思えないほどに発達して描かれているのに対し、2人の乗るエヴァンゲリオンそのものは、シンジの乗る初号機よりもずっと大きな胸があるかというとそれ程の差異は見えない。 初号機には男性性器を思わせる鋭角な部分があるということが、性差の現れと言えるかもしれない。

かつて女性の身体を戦う兵器として描かれることがなかった理由には、主として戦うのは女性の役割ではなく、男性であるという、戦闘モノにおけるなかなか覆しがたい製作者・視聴者双方の同時刷り込みが考えられるが、単に女性の身体を戦闘兵器とするのには、子供向けアニメの限界ということも大きいだろう。 だからこそウルトラの母の身体は地母神を想起させる天地創造の女神性という許しがあるし、エヴァンゲリオンの零号機と弐号機はぎりぎりの表現に挑戦していた。

しかしその長い間の、子供たちも見るであろうコンテンツに、脱衣した女性の身体を出現させるタブーや自主規制に果敢に挑戦したのが奥浩哉が『ビッグコミックスペリオール』において2007年から掲載を開始させた『GIGANT』ではないか?

『GIGANT』は現在も連載中であるが、今までのところは、だいたい以下のような内容となっている。

 主人公の高校生 横山田 零と彼が大好きなAV女優パピコの出会いから、未来人から自由に自分の身体のサイズを操作できるガジェットを手首に埋め込まれたパピコがAIからの襲来として現れる巨人たちを自らの身体を巨人化して戦う。 ロボットでもないし、パピコ自身も宇宙人でも未来人でもない。 ただ未来人から埋め込まれたガジェットによりパピコの身体は特殊な能力を帯びている可能性があるだろう。 巨乳を売りとするAV女優パピコが裸のまま、ウルトラマン的に巨人たちと戦う姿はやっと女性の身体も兵器として見なされた可能性にきづかせる。 

パピコが戦うのは、六本木・新宿等の巨大ビル街である。 高層ビルよりも大きな敵を倒すためにパピコはガジェットによって身体を大きくさせたり小さくさせたり本当にたった一人で戦う。 生身の女性の身体が裸で戦うというシーンはかなり最初は衝撃を持って描かれるが、よく考えてみると、ウルトラマンもエヴァンゲリオンも裸で戦っている。 しかしそこには、はっきりとした性器による差異は描かれない。 パピコの身体はどこを隠されることもなく裸のまま描写されるのは少々不思議に思えるが、女性の身体をウルトラの母的にぼかして描けば、それはむしろ不自然に思えてくるほどに、『GIGANT』で戦うパピコの身体は、その世界では当然の姿として映る。 

これまで女性の身体を全て隠す所なく描いてきたコンテンツはまさに、パピコが劇中で働くAV女優としての世界くらいでしかなく、現実世界でそれが受容されている場所は本当に少ない。 にもかかわらず、パピコが裸で戦う姿を描くことが容認されているのは、パピコは伸び縮みを瞬時に行うことで、身体のサイズを変えながら戦わねばならないという点が物語の構成上重要なポイントでもあるし、なにより、AV女優の身体をそのままの姿で戦闘シーンを描くというところに『GIGANT』が突き破ろうとしている点がある。 

女性の身体に対して「癒し」や「治癒」を期待してきたこれまでのテクストに対して、男性だけのものではないはずの戦闘性がなぜないのだろうか? という素朴な問いが『GIGANT』には感じられる。 

ジェンダーについての議論が深まってきた今なお、女性の身体性をただ美しさだけを中心とした軸により描写する傾向こそに、女性の可能性を縛る何かヒントがあるのではないかとさえ感じさせるのが『GIGANT』におけるパピコの美しさは、本来見てはいけないのではないかという禁忌を犯しているタブー故により意味を持つ。 しかしこれまで長い間隠され続けてきた女性の身体を戦闘シーン(しかも構成上脱衣でなければいけないという物語設定を行い)において描くことは、女性の全てを生身で公に露出させてはいけないというルールこそが、実は女性を公には出させない前提条件を作っていたのかもしれないという、女性の性と生殖を管理するために、 女性は公で裸になることを禁じられてきたのかもしれないという、管理される性こそが一番兵器としては強いのではないかという指摘をはらんでいる。

その一番気づいてはいけない点を、AV女優の身体を最終決戦兵器として描くことで、読者の無意識をノックしてくる『GIGANT』は、表層的なジェンダー論では不可能な深い不安を呼び起こす。

「ウルトラの母=団地妻が安心の存在であるのに対し、パピコは社会基盤を覆しかねない不穏の描写でもありながら、だからこそ、AIという現在の人類が追いきれない危うさを持つものが送り込む巨人に破壊される都市東京を守ることができる。



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