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一日のおわり方。

2015/03/14

いつからか私は、
一日の終え方を少しだけ意識して
終えるようになりました。

なんだかんだ言っても今は私も会社員。
表面的な出来事に
毎日それ程変わりはありません。

でも、繰り返しのような一日でも、嫌な一日でも、
逆に興奮冷めやらないくらい良い一日だったとしても、
とにかくどんな一日であったとしても、
同じようにその日にきちんと御礼を言って終える。
そう決めています。

自分の手で一日の扉をきちんと閉めて終える。
それはとても大事なことだと思います。
だってその"今日"はもう二度と来ないのだから。
だけど"明日"はもう今日ではないのだから。
(そう言えばいつからか、
嫌な一日ってのがなくなりました。
考えてみれば昔は結構あったけど。不思議だなー。
くるくるとイマイチ空回りな日(笑)
大変だった日というのは勿論ありますが。)

いつからか、私はこんな風に
一日を終えるようになっています。
そして、個人的にはその方が好きです。

そうすると不思議なことに、
一回一回ちゃんと区切られているからか、
毎日同じような一日でも、
次の一日は次の一日という感じで、
前々からずるずると来ている一日ではなくなります。

そうするとやっぱり、
一日の過ごし方も変わり、
ちゃんと"一日分"だけを丁寧に過ごす感じになります。

"今日は今日、明日は明日!"じゃないけれど、
一日分をきちんと過ごそうと思うのと、
今日も明日も明後日も
何日も同じ毎日が切れ目なく続いていて
(実際には同じような日々だったとしても)
それをずっと良く過ごそうと思うのとでは、
精神的な大変さは全然違います。

一日分を丁寧に過ごせばいいのであれば結構楽で、
だから良いところとか、楽しさとか、
そういうものを見つけられるスペースも生まれてきます。

勿論、それは朝も同じこと。
わざわざ座ったりすることはできなくても、
せめて布団の中にて一分で良いから、
その日一日自体に御礼を言い、
来た次の一日に挨拶(感謝)をする。

一日の扉をきちんと自分で閉じ、
きちんと自分で開けて外に出る。
毎日をそんな感じで始めては終える。

お前はどこかのお坊さんか!と
突っ込まれそうですが笑、、、
ただそれだけの、その積み重ねを侮る事なかれ。

三年後、一日一日は、
いつしかすごく丁寧なものになっているし、
そんな風に丁寧な点が連なれば、
そりゃ人生の質はぐんと素敵なものになることでしょう。

そして点だけを意識してきただけのつもりなのに、
ちゃんと線で良くなっているものです。
でも、そんなことは御構い無しで、
十年後の今日も、三十年後の今日も、
私は"今日"と全く同じように、
淡々と丁寧に一日を終えるのでしょう。

それは我ながら、良い意味で想像できる
『変わらぬ未来』です。

勿論例外の日はあって構わないし、
義務的に行うことではないのですが、
まぁ何て言うか...
ごはんを食べた後『ごちそうさまでした』を
きちんと言って、
食事を終えるようなものです。

いつどこで拾ってきた習慣かはわかりませんが、
これ、結構良い習慣だと思うんだよね。

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