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ラルフ by Mr.Black(2019.3.22)
会社に入って10数年が過ぎようとしており、会社での出来事が今の自分の一部をつくっているように思う。
なかでも数年前にいた部署で経験したことは、心の奥底にたしかに根付いていると感じることがある。
数年前にいたその部署は、社外との協議を業務の主としており、毎日、どんな案件が飛び込んでくるか分からない緊迫感に溢れたところだった。部署のトップは、凄腕で体格の良い声の大きな男性で、彼はアイロンのかかっていないクタクタになったラルフ・ローレンのシャツをよく着ていた。
ラルフの嗅覚の鋭さは別格で、飛び込んできた案件の良し悪しを一発で嗅ぎ分けた。これは筋が悪そう、となった案件は徹底的に管理した。
ラルフは話も上手だった。幹部への報告会議で彼が話し始めると、幹部の意識がぐっと向くのが分かった。そんなときのラルフは、部下の贔屓目を抜きにしても格好良かった。
だからこそ、だろう。ラルフには許せないことが多かった。
なぜこの案件を放っておいているのか、この資料は一体なんだ、社内を調整しなおしてこい、とすぐに怒号が飛んだ。
ラルフが恰幅の良い体を震わせ、顔を赤くして烈火のごとく怒る威圧感は相当なもので、お腹の奥がきゅうとなり何も考えられなくなった。毎日のように何かに怒るのだけれど、またかと思わせるような空気は少しもなく、そのたびに職場はしんとなった。
少し筋の悪い案件ばかり抱えていて、それなのに報告のタイミングも悪く、ろくな対処案も考えられない私は、ラルフをよく怒らせた。
帰り道、その日にラルフから言われたことを思い返すと涙が流れたし、次の日の朝、これからはじまる1日を思ってやはり涙が流れた。
その部署は女性が少なく、そんな中で私が容赦なく怒られている姿を見て、「女性も同じように怒るなんて、少しは配慮すべきだ」と言ってくれる人もいたけれど、区別なく怒ってくれることに、当時の私は唯一感謝していた。
あまりに私が怒られてばかりいるものだから、一度、隣の隣のグループの課長が支援に入ってくれたことがあった。切れ者でラルフの懐刀のような存在であった彼が、私の案件について、ああでもないこうでもないと鼻の頭に汗をかきながら考えてくれる姿を見て、私はそんなにも考えたことがあっただろうかと、彼ですらこんなに考えるものを、私は何をしていたのだろうと思った。ラルフはそれを見抜いていたのだ。
後から、懐刀を支援に差し向けてくれたのはラルフであったことを知った。
それからの私は、それまでよりずっと考えるようにはなったのだけれど、だからと言って、あまり状況は変わることもなく時間は過ぎた。
定期人事でラルフの異動が決まり、決して別れを惜しむだけではない空気の中、送別会が開催された。
会も終盤になり、挨拶を、とマイクを渡されたラルフは、お酒で赤くした顔で、「みんなにはひどいことを言ったこともあった。それをここで謝るつもりはない。でも、これだけは約束する。俺と一緒に仕事のできたみんなはどこに行ってもやっていける」と語った。
ラルフの後にやってきた新しいトップは、おそらくそれまでのすべての状況を把握していて、部下に対して温かく穏やかに接してくれた。すごく上品な人で、彼のシャツにはいつもアイロンがかかってピシッとしていた。
平穏な日々が戻りしばらくして、手にした本の中に「リーダーとは、救命ボートの漕ぎ手として選ばれる人である」という一節を見つけた。
穏やかなボート遊びであれば楽しく時間の過ごせる漕ぎ手を選べば良いが、命がかかっているときは、たとえ性格が強引で人当たりが悪くても、乗客を無事に導いてくれる成果を達成できる人が漕ぎ手として選ばれるもので、それこそがリーダーとして選ばれる基準である、というのだ。
これを読んで頭に浮かんだのは、ラルフのことだった。
それからまたしばらくして、社内の懇親会でラルフと再会する機会があった。
そのとき私は辞令をもらっていて、翌月から地方に赴任し、多くの年配の男性を部下に持つことが決まっていた。ラルフは、「年配メンバの中のボスを大切にすること。何かお願いをするときは、必ずボスを通すこと。」とアドバイスしてくれた。
お酒もだいぶ進んで、ラルフが席を外したときに、当時をよく知るオシャベリな同僚が近づいてきて、「ラルフのこと本当はどう思っているの」と聞いた。私は素直に「今は本当に感謝しかない」と答えると、その人はとても驚いた顔をして、少し離れたところにいたラルフにそれを報告に行ったのを、私は視界の端で見ていた。
次の日、ラルフに送ったお礼のメールへの返事に、地方で頑張りなさいということと、何か困ったら連絡してきなさい、助けてあげられると思うから、とあった。ラルフなら必ず助けてくれるだろうと思った。
ラルフはよく私に「君の説明には枕詞が無いんだよ、説明を聞く気になれない。」と言って怒った。
何の前置きも背景の説明もなく、ただ、今、発生している事実だけを伝えようとする私の話は、聞く側からしたら、何を考えながら聞いたら良いのか分からなかったのだろう。今ならそれが良く分かる。
でも、ラルフから私への言葉にも枕詞が無かったのだ。なぜそんなにも怒るのか、そんなところに拘るのか、そんな言い方をされなければならないのか、理解出来ないことも多かった。でもだからこそ、ラルフの言葉は心の奥底に直球で届いて根付いた。あれから、何年も経つのに、ああ、ラルフはあのとき、このことを伝えたかったのだと気付く瞬間が訪れる。何度も。これから行く先にも、ラルフの枕詞を見つけて感謝する瞬間がきっとある。
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