現代と瞑想6 カタルシスの諸相

カタルシス(Katharsis ; 浄化)は、もともと古代ギリシャ語で、病的な体液を体外へ排出すること、と言う意味であったという(広辞苑)。そこから罪からの魂の浄めなどという意味も生じてくる。仏教で言ったら解脱といったところであろうか。

ダイナミック瞑想・第2ステージこそがカタルシスなのだが、いやしくも瞑想と言うからには、トータル(全体的である)ことが求められている。見る人と見られるもの、やる人とやられるカタルシスが別になっていては、要点を失ってしまう。ただひたすらに行う事、そのものに成り切って行う事、これがあらゆる瞑想の基本にあると言って良いだろう。

我々は社会において普通、感情をあらわにすることなど許されていない。そのためカタルシスと言っても、はじめは戸惑うばかりだろう。とにかく大きな声で叫んだり怒鳴ったりしてみる。すると徐々にこれまで気が付かなかったような、奥深くに隠されていた感情が次々と湧き上がって来るのである。
このプロセスが進行してゆくと、大きな声でわめき立てることが、必ずしも本当のカタルシスではないということに気が付いてくる。本当のカタルシスは、静かに深く起こってくるものなのである。それは涙とともに重荷をすっかり降ろすような経験であり、癒しが起こる瞬間でもある。

ダイナミック瞑想を続けていくことで、幸運な人は、ネガティブな感情がシンプルに浄化されて、みるみる良くなっていく場合も見受けられる。
しかし大抵、この瞑想を始めると、無意識の奥に抑圧されてきたトラウマが浮かび上がってきて、一見どんどん悪化していくように感じられる場合がある。これは当然そうあるべきものなのだ。むしろ良いサインなのである。ここを経てはじめて人は良い方向へと向かってゆくしかないのである。
これが瞑想の困難な点である。ここに触れたくがない為に、ふつう人は無意識のうちにフタをして何事も無かったかのように隠してしまうのである。こうして隠されたトラウマが気付かれないまま、得体の知れない苦しみとなって常に人を苛み続ける。ここからあらゆる病理が症状となって噴出して来るのではないだろうか。
瞑想は外科手術のように、はじめ痛みを伴うものなのだと考えておかなければなるまい。

ダイナミック瞑想はやがて、これをやりさえすれば意識が楽になってゆくという地点に至る。やった直後はだいぶ楽になるのだが、しばらくするとまた苦しみが帰ってくる。また次の日行ってまた幾分か楽になる。このパターンが繰り返される事になる。そこで理解するのである。この苦しみを作り出している構造そのものが、根本的に変わらなければ、ここからの出口はないと。
ここからが本当の瞑想の領域になる。カタルシスを行いつつ、内側深くに光を当て静かに見つめるという作業である。

ダイナミック瞑想は大きな声を出せないような環境においては、声を出さずに静かに、全身の動きで感情を表現するという方法でも可能であり、それなりの効果があるのである。
私は静かに坐る坐禅でも、一呼吸ごとにネガティブな感情や苦しみをそこに乗せて、いわば吐き出すということが可能であると思っている。
実は禅の公案である「無字」には、まさにそのようなことを記述している部分がある。ダイナミック瞑想とこの「無字」をともに経験してきた私には、不思議な一致としか考えられないのである。禅には、すでにダイナミック瞑想が存在していた、と言い得るのではないだろうか。

(ALOL Archives 2012)

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