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HOME TOWN

 開放された、と感じた。
 長時間のフライトから地面に足が着いた時、やっと大きく息を吐いた。カメラマンの大沢修は写真集で見てひと目ぼれをしたこの小さな町に足を踏み入れた。とうとう来たのだ。都会から田舎町にやって来た彼は小さな空港に流れる涼やかな風にしばし目を細めた。
 すると、突然近くで男の怒声が聞こえ、驚いてそちらに目をやった。声はかなり目立っていた。周囲の人間は面倒なことに巻き込まれたくないのか無視していた。男が怒鳴りつけている相手は恋人らしい。彼女は露出度の高い服を着ていて頬に張り付いた艶やかな黒髪を指も使わず乱暴に頭を振って顔から払いのけた。女は男を怖がってはおらず胸の前で腕を組み、むしろうんざりした目付きで男を見ていた。外国語であまりの早口に修は聞き取るのに時間を要した。どうやら女にとって男が気分を害するのは日常茶飯事らしい。だから慣れっこで全く相手にしていないのだろう。どこの国にでもある痴話喧嘩。
 しかし修は目が釘付けになった。
 女の容姿が美しかったというのもあるが動じない凛とした態度にカメラマンとしての勘が働いたのかも知れない。何かが起きる。そう感じた。修はすぐふたりにカメラを向けた。

 女は男の顎を掴む。そして何やら囁きながら乱暴に手を放す。男の声が止み、静かになった瞬間、修のシャッターの音だけが響いてしまった。男は修に気付き、物凄い形相をして睨み付けて来た。
「あ、ごめん。なんか、良かったから……」
 修の間の抜けた答えに男は激怒して修に向かって来た。
 慌てて逃げようとしたがすぐに捕まり、男に腹を蹴り飛ばされた。床に強く叩きつけられ、苦しくて丸くなってうずくまった。男は更に修に蹴りを食らわせる。一瞬、呼吸もままならなくなるような痛さに呻きながら、修はふと女の顔をちらりと見た。すると彼女は両手を組んだまま優雅に笑みを浮かべていた。助けてくれないのか!? と思いつつ、つい綺麗なその顔をフィルムに収めてしまう。

 そんな修の態度に怒りが止められなくなった男は修の手からカメラを奪い取ろうとした。すると殴られっぱなしだった修は急に素早く身を翻し、カメラを庇った。敏捷な猫のような動きに一瞬男は驚いた。
「いいと思ったものしか撮りたくないんだよ!」
 修が叫ぶ。その言葉を耳にした女は、はっと真顔になった。
 修はカメラを傷つけないよう必死で腕の中に抱え込んでいた。もう一度殴りつけようと腕を振り上げた男の腕を女が掴んだ。一瞬、男の顔が怯えたようになる。
「もうやめたら? この人、カメラが大事なのよ。あんたがあたしを大事だって言うみたいに……」
 女の言葉に男の瞳は少年のように潤み、半ば手から落とすように修を放し、女の方を向いた。男の表情は体に似合わず不器用に見えた。
「ねえ、撮ってよ」
 女は修にそう叫ぶと男の顔を引き寄せてキスをした。修は急いでシャッターを切った。呆然と立ち尽くす男の手を取って女はその胸に抱き寄せた。男は無骨な手でおずおずと女を抱きしめ返した。

 事件は終結した。ぼぅっとしている修の許に女が近づいてきた。
「写真、できたら見せてね」
 女はまだ床に倒れ込んでいる修の前に屈み、バッグから口紅を取り出すと香水のように香るそのスティックで修の腕に電話番号を書きつけ、笑顔を残して男を引っ張ってその場を後にした。いい女だ、と修は感じた。笑おうとして唇の端が切れていたので苦痛に顔を歪めた。
 空港の空気は通常に戻り、ざわざわと動き出した。ゆっくり立ち上がると広大な景色が目に映った。今日からしばらく修が過ごすことに決めた町。先行きがいいと思った。殴られたくせにとても嬉しそうな顔をする修にすべてを見ていた通行人は首を傾げるばかりだった。
 
 修はタクシーを拾い、更に小さな町の名前を運転手に告げた。
 爽やかな風が吹きぬける町で修はタクシーを降りた。その美しい景色に魅入られる。そこで突如、景色に溶け込みつつ存在を感じさせる被写体を見つけた。バス停に立っていた少女だ。Tシャツ、短いデニムのパンツ、惜しげもなくさらけ出している手足はすらりと伸びていた。浅く灼けた肌、中性的な顔。ただそこにいるだけでその姿は一枚の絵のようだった。
「ハイ! 一枚写真撮っていいかな」
 ふと風が途切れた時を見計らって修は彼女に話しかけた。この国の言葉で話しているけれどどう見ても東洋人の修の存在に彼女は驚いて一瞬、肩が上がった。
「あ、唐突にごめん。後ろの景色と合ってたんだ。僕はカメラマンです」
 彼女が身構えたことに気づいた修は近づくことはせず、正直に告げて謝った。
「カメラマン?」
 重そうな機材を見て彼女は問いかけた。
「うん、今ここに着いたばっかりなんだ。数日間滞在したいんだけどどこか安く宿泊できる場所ってあるかな」
「決めて来てるんじゃないの?」
 彼女は怪訝そうな顔で修を見た。
「うん、行き当たりばったり」
「呆れた。こんな田舎に何の計画もなしで来るなんて」
 彼女は眉を顰めながら、それでも修に興味を持っていると判る人懐こい微笑みを含ませた。少女と言うには大人の仕草だ。雰囲気が無垢に感じたせいかも知れない。
「使ってない家があるわよ、友達の父親が管理してる」
 そう言って彼女が案内してくれた家は古い洋館で素晴らしい屋敷だった。修は興奮してまたすぐにシャッターを切った。
「あなた、名前なんて言うの?」
 彼女が聞いた。
「修。大沢修」
「シュウ?」
「そう、君は?」
「ベル」
「きれいな名前だね」
「シュウもね。煙みたい」
「煙?」
 目をぱちぱちさせて彼女の言葉を反芻した。
 今までいた場所では彼の名前を知らない人間なんていないほど有名だが『修さん』なんて呼ばれると何だか痒くなってくるのでベルが言う『煙みたい』な名前を気に入り、カタカナで字を教えた。ここから修はシュウになった。

 しかし、さすが田舎だけに夜の楽しみはバーでたむろすることしかないようだった。シュウがバーの扉を開けると近所の人たちが歓迎してくれた。そこにはベルもいた。昼間会った時と違い、女性らしいラインのワンピースを着ていた。
「そういう服も似合うね」
 そう言いながらシュウがカメラを向けるとベルはレンズを片手で覆った。「やめて」
「どうして?」
「この服は似合ってないから撮らないでほしいの」
 何かを言おうと口を開きかけたシュウの周りに町の人たちが寄って来たため、ベルはシュウから少し離れた。そんなベルを呼びとめようとしたが、少しそっとしておいて町の人たちを写した。しばらくしてからシュウはベルの隣の椅子に座った。
「似合うよ」
 ベルは諦めて肩をすくめた。
「そんなに撮りたいの?」
「撮りたい」
「じゃあ、撮っていいわ」
「良かった! こっちを向いて」
 ベルは戸惑いながら正面を向いた。その瞬間をシュウはカメラに収めた。シュウがゆっくりレンズから目を離すとベルを見て眩しそうに微笑んだ。
「すごくきれいだ」
 目の端に皺を沢山寄せてシュウは笑った。思わずつられてしまうような笑顔だった。ベルはそんなシュウに見とれて慌てて目を逸らした。そしてみんなと意気投合したシュウは二次会だと言って自分の家に呼んだ。家を提供したベルも酒や食べ物を持って一緒について来た。最高に楽しい夜だった。

 次の日の朝、シュウが目にしたものは見事に物が散乱した部屋だった。
 掃除を必要としたが朝日が美しいので部屋をそのままにしてカメラを持って外に出た。シュウの家にはベルがそっと来ていて、家の中の様子を窓から背伸びをして窺っていた。部屋の中にシュウの姿が見えない。ベルは更に窓に顔を近づけると後ろから当の本人に肩を叩かれた。ベルは驚いて振り返った。
「早いね」
「き、昨日は楽しかったわ、お礼を言いに来たの」
「なんだ、いいよ。コーヒーでも飲んで行きなよ」
 シュウはそう言いながらドアを開けたが、慌てて後ろ手に閉めてしまった。
「どうしたの?」
「レディーを入れる状態じゃないや」
 シュウははにかみ、昨夜の喧騒の後を芸術作品のようにベルと共有するべく、もう一度ドアを開けた。

 ベルは掃除を手伝ってくれた。
 へとへとになってふたりでアイスコーヒーを飲んでいると、シュウの携帯電話が鳴った。シュウは照れたような、困ったような声を出すと用件を詳しく聞き、電話のそばにあったメモ用紙に何やら書き付けてから電話を切った。
「どうしたの? おやつをやっと買ってもらえた子どもみたいな声出して」
 ベルの例えは的確に自分を表しているようだった。なのでシュウとしては苦笑するしかなかった。
「おれの作品が賞を獲った」
「すごいわ! おめでとう!」
「ありがとう、急だけど表彰式に出る。夕方戻るよ」
 ベルはその言葉にこの世の終わりのような顔をしたのでシュウは慌てた。
「あ、いや出掛けて来るんだよ、式が終わったら帰ってくるよ」
「本当?」
「うん。だからこの家は開けておいてくれよな」
「わかったわ」
 ふたりは指きりで約束をした。シュウはベルが紹介した家のことをホームと呼んで親しんでいた。

 シュウの家からの帰り道、ベルは大きな声に呼び止められて驚いて振り返った。
「随分よそもんと仲がいいって言うじゃねえか、ベル」
 その声の主はこの町でも有名な柄の悪い男で、若くて美しいベルに何かと言うと絡んでくるので鬱陶しいと思っていた。
「俺と付き合わねえってのはそういう理由かよ」
 男は酒臭かった。
「あんたには関係ないでしょう」
 ベルは早足でそこを逃れようとしたが男に行き先を阻まれ、腕を強く掴まれた。
「相変わらず活きがいいな。やつとはもう寝たのか?」
「手を放してよ!」
「なあ、俺の方がいいって、うまいんだぜ。後悔させないって。え?」
 ベルは力ずくで男を押して駆け出し、何とかその場を逃げ出した。シュウがいないのはたったの一日だけなのにベルは今別れてきたばかりのシュウにもう会いたいと思っていた。

 家に戻ると近所に住むレンと言う名前の少年が来ていた。彼はホームの管理人の息子でベルより随分年下だ。
「明日の夕方の飛行機でシュウが戻ってくるってさ、さっきうちに電話があった。速攻だよな」
 レンはホームの鍵を預かっているのでシュウに関する情報が早いのだ。ベルはさっきの忌々しい出来事も忘れ、急に気分が浮き立った。

 シュウが戻って来たその日、ベルはこの町で採れた野菜や肉を使った料理と沢山の飲み物を用意してホームでサプライズディナーを作りシュウを待っていた。ベルが欲しい一言はもらっていないが、別に女房気取りしている訳じゃない。無人にしていた家の管理者の知り合いなのだ。しかし心の中で言い訳をすればするほど関連がなくなり、ベルはひとりで苦笑した。

 知らずに家に戻ったシュウはベルの姿と料理を見て純粋に喜んだ。
「うわあ、嬉しいな。なんて美味そうできれいな料理なんだ。口に入れるのがもったいない。でも腹ぺこだ!」
 シュウは機材を置いて上着を脱ぐと、ついポテトサラダをつまみ食いしてしまった。
「こら、手を洗ってからよ」
「そうだった! 急ぐ!」
 そう言って洗面所に向かったシュウを目で追い、まるで新婚みたい、とベルが思っているとインターフォンが鳴った。シュウが洗面所から大きな声でドア越しに返事をした。
「夜分すいません、近所の者です。こないだ挨拶できなかったので」
 丁寧な男の声がしてシュウはすぐにドアを開けた。しかし男はドアが開いたと同時にシュウを押しのけ、先ほどの人の良さそうなキャラクターを投げ捨て、ずかずかと部屋に入って来た。男は近所の人間ではなくベル目当てのチンピラだった。ダイニングの椅子に座っていたベルは驚いて腰を浮かせた。
「何だよ、もう来てたのか。この食い物もおまえが? へえ」
 男はじろじろとテーブルに並ぶ料理を見た。それは料理をただの好奇心でしか捉えていない卑しい視線だった。
「挨拶なんて柄じゃないのに何しに来たのよ」
「何しに?」
 男はニヤリと笑い、シュウの体を押し退けて外に追い出してドアに鍵をかけた。
「ふざけるな! 開けろ!」
 シュウが外から激しくドアを叩いた。ベルも動揺してすぐ玄関に走って行こうとしたがその手を掴まれ、男に抱きつかれた。
「やめて! 助けて! シュウ!」
 ベルは男に服を破られ悲鳴を上げた。
 シュウは周囲を見渡し、急いで側にあったタイヤでドアを壊した。部屋に入るとすぐにベルから男を引き離した。その反動で男は外に転がり出た。その隙にドアを閉め、家具を寄せて開けられなくした。ドアも開かないとわかり、おまけに雨が降って来たため、その寒さにぞっとして服も泥だらけになったせいか舌打ちをしながら男は諦めてその場を去った。酔っ払いのふらついた足取りだった。

「大丈夫?」
 大丈夫、と言おうとして服を破られ、肌が露わになっていたためシュウに背を向けた。シュウは帰宅後、ソファーに放り出していた自分の上着を着せた。
「誰なのか確認もせずに部屋に入れてごめんな」
 ベルは下を向いていてそのままの姿勢で首を振った。
「あ、それ仕事着なんだ。汗臭くてごめん」
「ううん」
 むしろベルには嬉しかった。この人の匂いが。ベルは俯いたままシュウに抱きついた。それはまるで雛が親鳥の懐に潜り込むように。シュウはそっとベルを抱きすくめた。柔らかく。ベルは鼻先をシュウの胸元に摺り寄せた。

 次の日、それを耳にしたレンは『シュウのやつ!』と怒り、シュウのところに向かったとレンの父親から聞いた。ベルは驚いてホームへと急いだ。
「シュウに腹を立てるなんてお門違いだわ!」
 慌てていたベルはノックもせず、昨夜の事件のせいで半分壊れかけているホームのドアを思い切り開けた。するとシャワーを浴びたばかりで上半身は裸のままタオルを首にかけただけの格好のシュウが今まさにTシャツを着るというところに出くわしてしまった。
「ごめんなさい!」
 ベルは大きな音でドアを閉め、呼吸を急いで整えた。
 シュウはシャツを着てすぐにベルを部屋に呼んだ。シュウの濡れた髪からはシャンプーの香りがしていてベルはくらくらする。何となく気まずくて黙っているとシュウの方から話してきた。
「さっきレンが来たよ、勘違いしてた」
 ベルは今更ながら、そうだった、その話でここに来たんだった、と思い出した。
「勘違い?」
「つまりおれが、その、君に乱暴しようとしたって……」
 シュウは言いにくそうに湿った髪に手をやった。ベルは赤くなって思わず座っていたソファーから立ち上がった。
「あ、いや、その誤解は解いたよ、最初はおれに殴りかかってきたけど殴られても当然かなって思ってさ、いくら小さい町だからって女の子を遅く帰すなんて危険だよな。反省してるよ」
「来たかったから来ただけよ!」
 ベルは大声で言ってしまってから恥ずかしくなった。
「レンは君が好きだって言ってたよ」
「困った子ね」
「レンは立派な男だよ、君を守ろうとしてた。ベルはどうなんだい?」
「好きよ、でも好きの意味が違うわ。恋愛じゃない。レンは弟みたいな感じだもの」
 そうベルが言ったあと何故かシュウの言葉が途切れた。黙りこくって椅子に座ったままで両手の指を絡ませて膝の上で弄んでいる。
「どうしたの?」
「手を……」
 シュウがそこで言葉を切ってしまったので、シュウのいる椅子まで歩いてベルは自分の手を差し出した。すると暖かい温度でシュウがベルの手に触れてきた。そしてゆっくりとベルの手の甲にシュウは自分の口唇を寄せた。そのまま俯いたシュウの長い睫毛が小さく震えている。子どものようだ、とベルは思った。昨日助けてくれた時の力強さや、さっき裸で見た時の筋肉の逞しさとのギャップがまたベルの心を捉える。年齢の差は随分あると思えるのに本気で赤くなっているシュウ。整髪料をつけていない洗いたての前髪が半ば乾き、さらさらしていて、可愛いとベルは思う。椅子に腰掛けたままのシュウと立ち尽くしているベル。ベルは前屈みになってシュウにくちづけた。

 次の日、お詫びも兼ねてレンが庭で摂れた果物を持ってベルの家にやって来た。
「ね、天気も良いし外で食べようか」
 ベルはそう提案してレンと一緒に家の裏手にある空き地に向かった。放置されたままになっている大きなコンクリートの上に座ってふたりは果物を齧った。ふと、ベルがレンを見るとシュウが着ていたような色のシャツを着てよく見ると髪型までシュウに似せていたことに気づいた。
「あんたその髪型……」
 レンは、はっとして急にくるりとベルに背を向けてシャリシャリと果物を食べることに夢中な振りをした。耳が赤くなっている。ベルは微笑みながら何も言わず黙って足をぶらぶらさせていた。
「俺さ、まだガキだけどベルが好きだ。でもシュウにだったら取られてもいいかなって思ったんだ」
「何言ってんのよ、シュウが私を好きかどうかも知らないくせに」
「ベルは好きなんだろ?」
「それはそうだけど」
 ベルが気にしているのはシュウがこの町の人間ではないことだ。
 この間も一日とは言え、都会に『帰った』からだ。シュウは数日間ここに居るだけの人。それを考えるとベルは胸は痛む。
「離れてしまったら私、自信ないもの……」
 そこまで言ってベルは涙ぐみそうになり、話をやめた。レンはどうしていいか判らなくて遠くを見ると何かに気付いた。
「あそこにいるの、シュウじゃないか?」
 レンが指を差す方に目をやると有刺鉄線を越えた広い野原で、シュウが真剣に飛び立つ瞬間の鳥や風景などを連写していた。その姿を見てまたベルは胸が騒いだ。レンは、と言うとシュウのそんな姿に感動していた。
「シュウ!」
 ベルが叫んだ。
 シュウが振り向いた瞬間、彼女は果物を放った。シュウは真剣に目で追い、それを受け止めた。
「ナイスキャッチ!」
 レンが笑って言った。

 しばらくすると親に呼ばれてレンが帰ったのでシュウとベルのふたりきりになった。さっきレンと座っていたコンクリートに今はシュウと並んで座っている。
「あの写真やだわ。カップルに見えるじゃない」
 先ほど、果物を受け取ったシュウはベルとレンが走って来る所をカメラに収めたのだ。
「うーん、姉弟にしか見えないな」
 その言葉でベルは機嫌を直した。じゃあ、自分ひとりだったらシュウにはどう映るんだろう。昨日の手の甲へのキスはどういう意味なのだろう。シュウはもうすぐ帰ってしまうかも知れないのだ。時間がない。そう考えた時ベルはシュウに向き直って言った。
「今夜、私を写してくれる? ありったけの服を持って行くわ、色んな私を撮って欲しいの」
 シュウは果物を食べる手を一瞬止めた。
「夜でいいの?」
「いい」
「わかったよ、迎えに行く」
 ベルはほっとして立ち上がった。
「仕事の邪魔してごめんね」
「全然。このリンゴうまいよ、サンキュー」
 シュウはほとんど食べ終えた果物を見せた。
「レンがうちに持って来てくれたの。ねえ、レンは私をあなたに取られるんならいいんだって」
 さっきの子どものようなレンの言葉を敢えてベルはシュウに投げかけた。シュウの目はベルを捉えようとしたが、それよりも早くベルは目を背けてしまった。
「じゃ、今夜ね」
 そう言ってベルは走って帰って行った。その場に残されたシュウは果物を口唇にあてたまま、ぼぅっと考えていた。

 その夜、約束どおりシュウはベルを車で迎えに来た。ベルは笑顔を作って見せたが緊張しているのか少しひきつっていた。
「……泊まっても大丈夫?」
「もちろん……」
 そんな会話でますます言葉少なになった。
 ただベルがちらり、と盗み見したシュウの横顔は嬉しそうだった。それを確認するとベルは安心した。

 ホームに着き、シュウはとりあえずベルをソファーに案内した。
 互いに少し落ち着かないのでまず軽く飲み物を飲んで喉を潤した。シュウはカーテンを閉め、照明の明るさに気をつけた。機材の入ったボックスを開けるとベルにはさっぱり分からないような機械が並んでいた。そしてさりげなくシュウを目で追った。
 仕事の顔をしてる、とベルは瞬間思う。
 カーキ色のシャツの袖から覗く腕を見てセクシーだと感じ、ベルは動揺した。シュウも目の端にベルの姿を映していた。互いに意識しながら決して交わらない角度で『見つめ合って』いた。けれどファインダーからベルを見ると彼女はシュウをじっと見据えていた。実際に職業がモデルだとしてもとても魅力がある。誰も放っておかないだろうとシュウは思う。そしてベルが何気なくグラスを置いた瞬間から撮影は始まった。自分から言い出したことだし覚悟はして来ているがそれでもベルは慣れないシャッター音に戸惑いを隠せなかった。そんなベルの動揺を瞬時に見抜いたシュウは優しく声をかけた。
「大丈夫。おれの目がレンズになっただけだよ、喋りながら写そう、普通に動いていていいよ、おれは勝手に君を追うから」
「わかった」

 ベルはその一言で楽になり重ねて着ていた服を一枚脱いだ。
 ジャケットを脱ぎ、シャツを脱いだら下着になる。ベルは少し緊張したが思い切ってシャツを取った。きわめて薄着になった。次に細いストラップのドレスを着ようとした時また少し躊躇った。下着を取らないと不自然な線が見えてしまうのがベルは嫌だったからだ。ベルはシュウに背を向けてブラのホックに手をかけた。シュウがカメラから目を外した。
「……写してもいいの?」
「いい」
 シャッターを切るスピードが僅かに変わった。

「少し休憩しようか」
 気が付くと軽く二時間は経過していた。シュウは汗だくになっていたのでベルに断ってシャワーを浴びに行った。
 その間、ベルは緊張が解けてぼんやりと床に座って壁に凭れ、水音だけを聴いていた。心地良かった。ただの水音なのにこんなにも素敵なサウンドになるなんて。そして思いついてラインのきれいな赤いサテンのスリップに着替えた。しばらくしてシュウが出て来た。
「私も浴びていい?」
「もちろん」
 シュウはベルにタオルを渡し、入れ違いにそのままバスルームを出ようとしたがベルに呼び止められた。
「ここにいて。このままの格好でシャワーを浴びる私を写して」
 シュウは一瞬戸惑ったが、すぐに頷いてフィルムを替えた。撮影はすぐに始まった。スリップを着たままのベルにシャワーの湯が当たる。最初は棒立ちになっていたが意を決して頭から湯をかぶった。そんなベルをシュウは内心落ち着かない気持ちで何枚か写した。
「オッケー、すごくきれいだ」
 そう言って撮影をやめようとしたシュウをベルは止めた。
「……今度はカメラではなくあなたの目で私を撮って」
 少しの間、シュウは立ちすくんだが観念した。シュウの本音ではそうしたいのは山々なのだ。
「うん」
 一言だけ言うと横のトイレットに腰を下ろした。
 ベルはまた熱い湯を体中に浴びた。前髪をかき上げる腕、水を弾く肌、スリップが体に張り付く様子をシュウは見つめた。体の曲線が露わになった時、意外にも肉感的なベルの姿をシュウは瞳のシャッターで切って行った。
「ベル」
 シュウが立ち上がって呼びかける。
 ベルは湯から顔を外し、黙ってシュウの方を向いて一歩近づいた。一瞬の沈黙の後、シュウは力一杯彼女を引き寄せ、くちづけた。ベルもシュウの首に腕を回し、くちづけに応えた。びしょ濡れになったままふたりは長く熱いくちづけを交わし続けた。

 撮影を終えてふたりはソファーに座り、リラックスした。コロナビールで乾杯して少し照れて微笑み合った。
 シュウはきっといつか帰ってしまうけど、今ここにふたりでこうしていることを大切にしよう、そうベルは考えていた。だけど後悔したくない。その想いが溢れてベルは何度もシュウにくちづけた。その気持ちはシュウにとっても同じだった。ふたりはお喋りをして、抱き合ってくちづけあった。何度も何度も。こうして短い夜は更けて行った。

 次の日、レンがシュウに言付かっていたという伝言を聞いてベルは表情も動かないほど驚いた。シュウが帰ったのだと言う。
「私は、遊びだったの……?」
 愕然とした表情のベルにレンは慌てる。
「ベル、落ち着いて! 違うよ、事情があって戻っただけだよ。君が仕事中で連絡できなかったから俺に頼んだだけなんだ」
「事情ってなに?」
「それは俺も聞いてないけど……」
「なんで聞かないのよ」
「忘れたんだよ、すぐ戻るって言ってたから……」
「すぐっていつよ」
「帰って来たら知らせるよ」
 レンは心底困った顔をしていた。
 こんなことを言うのはただの八つ当たりだ、とベルはレンに謝った。そしてレンが持っているホームの鍵を見て言った。
「ホームの鍵、私に預からせて」

 いつ戻るのかも判らないが、ベルは一週間仕事の休みをもらい、シュウのいないホームにベルはひとりで入った。別に置いてあるものを覗いたり不審なことをする訳じゃない。シュウがいない間、ベルはここで掃除をしたり料理をしたりして生活をすることにしたのだ。自宅から持ってきた荷物を置いてあの撮影の日の夜のようにソファーに腰掛け、横になった。ひんやりとした感触が少しだけ感傷的にさせたがいつの間にか眠ってしまい、そのまま夜明けを迎えた。
 朝になるとベルはすぐに体を起こし、思い切りカーテンを開いた。掃除をしようと思い立ち、ぱたぱたと動き回る。シェーブローションや雑誌などそのまま置いていかれた物にシュウの存在を感じ、切なくなったが同時に楽しくもあった。

 一週間はあっという間だ。明日で休みも終わる。
 ベルはため息をついて夕食の支度をしていた。その時インターフォンが鳴った。いきなり静寂を破ったその音に驚き、体をぴくりとさせた。一瞬あのチンピラだったらどうしようとためらった。時間は二十時半を回ったところだ。戸締りはきちんとしてある。そんなことを考えて玄関付近をうろうろしているとすぐにあの愛しい声が聞こえてきた。
「ベル! ただいま」
 シュウの声に歓喜し、ベルは急いで鍵を外してドアを開けるとほとんどぶつかるようにシュウに抱きついた。シュウはベルの体の重みを愛しそうに受け止めた。
「お帰りなさい!」
「黙って行ってごめん。またレンに叱られるところだったよ。あ、ベルにもだ」
 ベルは笑ってシュウのシャツに顔をうずめた。頭上から降りてくる慣れた声。その声だけをベルはただ聴いていた。するとシュウのお腹が鳴った。
「安心したら腹の虫が騒いできた。いい匂いがする」
「今ちょうどできたところよ」
 ベルがシュウを見上げてそう言いかけた時、唐突に口唇をふさがれた。
「私をつまみ食いするの?」
「ベルはメインディッシュだ! でも本当に腹も減ってる、食おう」
 ふたりはテーブルにつくと、がつがつと食べ始めた。うまい! と言うシュウの言葉に微笑みを返しながら。

 遅い夕食を終え、ふたりで皿を洗い、シャワーを浴びてやっと落ち着いてソファーに身を沈めた。シュウは改めて部屋を見渡し、それらをカメラに収めた。
「いいな、ベルの存在がある」
「最初に来た時はシュウの存在が圧倒してたのよ、くらくらするくらい」
「くらくらってなんだよ」
 シュウが笑った。
「だって圧倒してるのに実在がないんだもの。変な感じだった」
 シュウはベルの頬に音を立ててキスをした。
「レンに聞いてびっくりした」
「本当にごめん、もう黙って行くなんてしないから」
「でも」
 ベルが訊きたいこと。それはやはりいつまでシュウがここに居られるのか、と言うことだ。けれどなかなか言葉に出せない。そんな心を察したようにシュウは言う。
「おれはフリーだから自分の住む場所くらい自分で探すよ」
 フリー。ベルの耳にはそのままの自由という意味に聞こえた気がした。
「そうね、シュウは自由よ」
 シュウは気が抜けた炭酸水のように淡い声でベルに話す。
「自由なんかじゃないよ、ある程度の規則がないと怖くて生きて行けない。だけどこの町に来ると解放される、そんな力を持ってる。ベルはそういうおれを見てるんだよ、きっと」
 ベルはまっすぐシュウを見つめる。
「そういうシュウしか知らないわ。どうしてこの町を選んで写そうなんて思ったの?」
「偶然見てた写真集で、きれいだって感じて惹かれた。実際に何もないと思ったらすぐに引き上げてたよ」
 ベルは優しくシュウの髪を撫でた。
 ベルの指が気持ち良くて、うっとりと目を閉じ、シュウはここに来たばかりの頃の夜を思い出した。

 夜になると都会の喧騒を思い出し、金属音のように耳鳴りが迫っ来て少しの間不眠になっていた。しかし、ふと、この町に着いた時に会ったカップルを思い出した。あの時、自分はいいと思ったものしか撮れない、と無意識に言ってカメラを庇った。そして気がついてみるとこの町の至る所、ホーム、そして何より被写体のほとんどがベルに向いていたことに気づいたのだ。

「ここはいい町だと思う?」
「絶景だよ」
 ベルは小さくため息をついた。
「自然の美しさには敵わないわ」
 そう言ってため息をつくベルにシュウは言う。
「この景色やホームの中で君を撮りたいんだ」
 ベルはその言葉に、はっとして顔を上げた。
「撮り続けたい、ベルを」
シュウを見ると顔を真っ赤にして俯いていた。
「それって」
「もう少ししたらおれの荷物がここに届くから。おれがあっちに行ってた理由はそれだよ、この町に住むために色んな手続きを済ませてきたんだ」
 ベルは驚いて思わず詰め寄る。
「後悔しない? 何にもない所よ」
「沢山あるじゃないか、少なくともおれが欲しいものはここにしかない」
「なに?」
「言わせるのかぁ?」
 もはや、シュウのこの反応ではベルにも答えは判ってしまった。でもここは直接シュウの言葉で聴かなければと思い、少し睨むように見つめた。
「そうよ、言って」
 シュウは耳まで真っ赤にしてベルを乱暴に抱き寄せた。ベルが小さく叫んだ。
「欲しいのはベルだ! 死ぬまでベルを撮り続けたいんだ!」
「やっと言ってくれた、待ってたわ!」
 ベルはシュウの首に改めて抱きついた。そして少しだけ顔を離し、指でファインダーを作ってシュウを囲った。シュウのまっすぐなまなざしが指の中に納まる。
「いい顔。私もシュウを見つめ続けるから」
 シュウは一生をかけて愛する人を撮り続けるという生き方を選んだ。
 この町に着いた時、先行きがいい、と思ったのは予感だったのかも知れない。これからこの町が、そしてこのホームがふたりの本当のホームタウンになる。まだ真っ赤な顔をしているシュウにベルは優しく微笑み、口唇でシャッターを切った。


<Fin>
初出 2004-04-15
※2018-05-02 推敲
※2019-08-18 更に推敲
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懐かしい作品になります。
2004年当時存在していた「ゴザンス」という小説や文章、エッセイ等の投稿サイトに初めて送ったものです。そんな初めての作品が自分自身忘れられない作品となって心に残っています。しかし当時のままの文章だとあまりにも拙いため推敲し、ようやく何とかこの形で収めることができました。読んでくれてありがとう。

幸坂かゆり

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